現代に生きる 森田正馬の言葉④


 

 

 

 

 

心は流れる


何かにつけて、思うようになりたい。優越にありたいと言う欲望が満足される見込みのない時は、憂鬱になり、将来とても駄目だと悲観する時には、絶望的になる。これに反し、欲望が意のままになるような気がするときは、気が引き立ち、楽天的になる。あたかも雨天にうっとおしく、晴天に心が朗らかになるようなものである。何の理屈もつけようがない。


思い切ってやると言うことにも、二通りある。一つは能動的に、自分から勇気をつけてやる。第二の場合は、受動的にやむを得ずやる。

第一の場合は、対人恐怖患者が、「人前に出る稽古をすればよいか」など質問する心持で、第二の場合は、いかなる境遇にも、ことさらに逃げないで、当たって砕けると言う態度の心境である。ちょっと思い違えると、区別できないような、わずかな相違である。この第一が軽快、第二が根治である。


神経質が強迫観念になり、この難関を通過し、これから解脱したときには、初めて「心は万境に随って転ず」の心境を体験することが出来る。それは強迫観念は、実に人生の煩悶の模型的なものである。例えば「人前で恥ずかしい」「難しい本を読めばいやになる」と言う当然の心の事実を、そうあってはならぬ「べし」と言うことで、その心を否定し、抑圧し、回避しようとする不可能の心の葛藤であるからである。


今度妻が亡くなったのは、子供に比べればよほど軽いようです。それでも時々いろんな思い出のために、胸に迫ることがある。しかし私はいつでも決して、それを拒んだり気を紛らわそうとしない。また忍受しようと努めたりすることもない。それは連想のまにまに、素直に従っていれば、必ず思いもかけず、他の事柄に変化して、その悲しみもまもなく通過してしまう。


例えば今私が金が欲しくて、盗み心が起きる。その心を否定しようとせず、そのまま自由に放任しておくときには、いろいろな考えが起きる。百円くらいのはした金だと、盗んでも仕方がない。しかしこれが一万円にもなると、ちょっと億劫で気持ち悪い、どのくらいで見切りを付けたらよいだろうとか、結局は盗んで罪を恐れる苦労をするよりも、我慢した方が得だとか、様々に考えている間に、「心は万境に随って転ず」で、いつの間にか、その悪心も流れ去り、安楽な気持ちになっているという風である。強いて自分の心を、無理に抑える必要はない。


入院中の患者が、初めは仕事が嫌でも、その心のままに、これを否定や抑圧しようとせずに、ボツボツやっていれば、心は自然に、外向きに流転して、いつの間にか、いわゆる仕事三昧になるのである。これは簡単に体験できることです。


誰かの話の「お清ちゃんから逃げられなくなって」と言うのは、それまでは逃げようか、逃げまいかと、たった二通りのみを堂々巡りしていて、果てしの無かった心が、逃げられないと決まっては、初めて心が活路を開いて、「お清ちゃんが来たから、汗が出た」と転換し突破した。それまで全く無我夢中であったものが、急にお清ちゃんの挙動や、周囲の事も、目につくようになり、お清ちゃんと話す用事も冗談も、考えつくようになり、心が周囲の変化に従って、流転するようになったのです。


「警察に連れていかれても、自分の犯した罪はないから、いい開きは立つが、警察はなんだか気味が悪い」、「毛虫はいやらしく気味が悪いが、決して飛びついたりしない」このようなモノの見方を「事実のままに見る」と言うのである。

これを警察を気味悪がってはいけないとか、毛虫を気味悪いと思ってはいけないのように、自然の感情を否定する必要はさらさらないのである。


その強く心に次第に推し進めていく心理は、強迫観念の性質であって、こんな想像や考えを起こすのは、余計な無駄ことで、いたずらに仕事の能率を悪くするから、こんな考えを起こさないようにしようと、われとわが心に反抗しようとするから、ますますその心が明瞭になり、強くなって苦悩を伴うようになります。もしこれをそのままに、思い流していけば、決して苦痛とならず、絶えず流れ去って、濁った泥水も、水流が早ければ、水が早く澄むように、心の邪魔もなくなるのであります。


「皿を割ってはならん、しくじりを繰り返さないように」と考えることは、ことさらに自分の心をためなおし、型にはめようとする心で、これを「思想の矛盾」として説明してあります。すなわちそう思えば思うほど、事実は反対になり、注意しようとすればかえって注意できなくなるいわゆる「気が利いて間が抜ける」ようになり、失敗しないようにと思えば、却って失敗すると言う風であります。


幸福とは、物そのもの、事そのこと、物と事の整い敵った境遇そのものではない。ただその人の心の満足、感興にある。すなわちその人の主観によって定まるのである。満足、感興は私たちの感情の発露である。感情は自分と外界の相対の間に起伏、変転するものである。


すなわち腹が立つことがあっても、決して顔に出さないようにし、日記帳に夫の無理なこと、自分の不満なことを詳しく書き留めておいて、さらば喧嘩と言う時に、十分相手を遣り込めるだけの材料を集めておいて、予定通りに論争を開始するのが良いと言うことである。


「負け惜しみ」の人は、負けることばかりを悔しがり、金銭欲の強い人は、損失ばかりを言い立てて、世の中の事実を見ることが出来ません。囲碁の勝負が面白いのは、両方の力を互角にしておいて、「勝ってうれしく、負けて悔しい」のが面白くて、勝負がやめられなくなるのです。「負け惜しみ」は、見境なしに何でもかんでも、負ける口惜しさがいけないので、一切勝負が出来ず、したがって上達もないのであります。


こんな時に一番軽便なことは、捉われになり切れば良い。それは悲しみは悲しみ、苦痛は苦痛、捉われは捉われるよりほかに、致し方がないと言う意味である。これは我々の心の事実であるから、悲しみを喜ぶことのできないように、捉われを否定することも、逃避することも不可能であるからである。


「捉われにとらわれる」とは、今私は茶わんや時計などが置かれた枕台の前に立って話をしている。今私は枕台の危険と言うことにとらわれながら、同時に話し方の工夫にも捉われている。もし私が枕台の存在を忘れたならば、これを踏みつぶさなくてはならない。私は今、話と枕台の両方にとらわれている。


休日であるから、「休む」と言う文句にとらわれる。散歩は「休む」ことに入るけれど、ちょっと庭を掃除することは「仕事」の部類に入るから、すべきではないと心得る。実は散歩でも掃除でも、同じことであるけれど、それに気づかないのである。


宴会の席などで、給仕が大きな盆に、たくさんのお茶を入れた茶碗を持ってくる。多くの人は「礼譲」と言うことにとらわれて、みんな先を譲ってなかなかとろうとしない。私はこんな時、どんな感じがするかと言うと、まず給仕が重いものを持っていて、悠長にじらされては、苦しかろうと言うことに気が付く。お茶を互いに譲り合っても、何の得にもならない。ならば給仕の負担を軽減するため、なるべく早くとった方が良い。


例えば師匠に叱られる。これを無理と思って腹立たしく、反抗の気分が起ころうとも、まずはそのままに、仮にその人の言うとおりに従うことである。また自分の職務に対しては、あるいは人に対する不平不満、あるいは自分の能力に対する疑惑や不安があろうとも、そのままに、自分の仕事に、その日その日にかじりついていくことである。あるいは頭重や不安の悩みがあっても、医師が診断して差し支えなしとなれば、疑い恐れながらも、まずは試みに、その医師の言うとおりにすることである。


心臓麻痺は恐ろしい。つい自分が何かの事で、そうなったら大変だと思って、恐れていれば良いのである。恐ろしがるまい、思うまいと言うのは無理です。なぜ無理かと言うことはわかるでしょう。死を恐れないようにするのは、間違いのもとです。これを思うまいとするのは、柱と相撲を取るようなもので、こちらが参ってしまいます。


強迫観念が治ったことを聞き、自分もそうなりたいと思う。それを「感じ」とか「素直」と言う。「あの人は病気が軽いから、何でもないけれど、自分は特別であるから、治らない」とか『自分は意志薄弱であるから、先生の診断が間違っている」とか言うのを、ヒネクレとか強情とか言うのである。それで素直な人は、良くなった人の話を聴いて、自然とその気合に釣り込まれて、治るようになる。


我々の仕事でも、皆その通りです。嫌いなものは嫌いで、しかたなしに、素直に、これも生活の一つの習わしで、全生活の中の一部分だと心得れば、何でもないことである。イヤイヤながらやっていくうちに、何時しか興味をでき、やらなければかえって気が済まぬようになる。


鼻の先が見えて、勉強の邪魔になる。普通の人はこんなものは気にならないだろうと思うと、腹立たしくなり、気も狂わんばかりになる。人並みでないとか、余計なことを考えるが、その苦しみの出発点である。鼻先が見えない人は、一人もいない。ただ普通の人は見えるままに仕方なしに勉強している。だから少しも気にならないのである。


私が「過ちて皿を割り、驚きてこれをつなぎ合わせてみる。これ純なる心なり」と言っているが、「ああ惜しいことをした、残念だ」と言う心そのままであった時、その人は同じ過ちを繰り返す事はない。これに反して『自分はそそっかしくていけない』とか「もっと注意するべき」とか「ああ、また叱られる」などと考えると、思想の矛盾となって、再度同じ過ちを繰り返すようになる。これが悟りと迷いの分かれ道である。


一口に言えば癪に障る。さわるままに「うぬ! どうしてやろうか」とかハラハラジリジリ考えればよい。私の郷里の武士道の戒めに、「男が腹を立てれば、三日考えて、然るのち断行せよ」と言うことがある。それで良い。そうすると初めのうちは頭がガンガンして、思慮がまとまらないが、おいおいこのようにすれば、相手はどう、自分はどうと言うことが分かってくる。


つい過失で、人の大切なものを壊したときなど、そのものの気持ちになりきり、いわゆる「皿を割り、驚いてこれをつなぎ合わせてみる。」と言う気持ちを持って、その持ち主に対し、「どうも惜しいことをしました。どうすればよいでしょう」と言う風に言えば、その持ち主も壊した人も、ともにその大事な品そのものになって、残念と言う心が一致しているから、ともに惜しみ、ともに悲しむということになり、われと人との区別がなくなる。

これに反し、いろいろ言い訳したうえに、「どうかお許しください」といえば、それは自己中心で、品物の惜しいこととは別に、自分が許してもらいさえすれば、良いと言うことになるから、壊された本人も、悔しくなって小言の一つも言いたくなる。


例えば時間がたてば腹が減り、ごちそうを見れば食べたくなる。これが「感じ」である。この時今日は下痢をしているからとか、人前で行儀悪くすると、笑われるとか考えるのを「理知」と言う。この感じと理知の調節によって、人はその行いが正され、初めて理想にもかなうようになるのである。


修養のためにする仕事は、何時でも心の置き所が逆になる。

例えば「障子はハタキではたくものである」と言う法則にしたがうものであるから、ほこりのあるなしにかかわらず、パタパタとたたく。その音は単調で一本調子であるから、隣室で聞いていると、掃除の気持ちになっていないことが分かる。このような人は、何時でも障子を締め切っておいてハタキをかける。「そのホコリはどこに行くのか」と言うことには無頓着である。ホコリは床の置物や器具の上などに積もるから、障子の上よりも、却って始末に困ると言うことが分からないのである。


例えば下戸の人がお酌する時に、「こんなに辛い物をどうして飲めるのか?」と言う心持で酒を注ぐと、無理がいかなくて上戸も酒がうまく飲めるが、「あの人は酒好きだから」と言う風に、まったく自分を離れて考えると、加減なしに、やたら追いかけ酒を注ぐから、いくら上戸でもやりきれなくなるのである。


神経質の苦痛も、自分に比べて人を推し量ると良いけれども、特に神経質は、自分と人との間に隔てを置いて、自分は勉強すると苦しいけれども、人は朗らかに愉快に勉強しているとか、人前で恥ずかしいのは自分だけで、人はみな気楽でうらやましいとか言う風に、人に対して全く同情するところがない。会の世話のような事でも、人には無理な苦しいことをさせても、自分ばかりは楽をしようとするような人間になるのである。


人間の知識には四種類ある。下の知識は書物から得る知識。中の知識は、書物の刺激によって自分が思索して得る知識。上の知識は書物を離れて、自分自身の生活体験から得る知識である。しかし人間知識の最上位にある真知識は、直観によって得られる知識である。


ここでの修養の第一の出発点は、物事に対する『感じ』を高めていくことである。我々は見るもの、聞くもの、何かにつけて、ちょっと心にとめていれば、必ず何かの『感じ』が起こる。かりそめにもこれにちょっと手を出しさえすれば、そこに感じが高まり、疑問や工夫が起こる。そして興味がわいてくる。これを推し進めて行けば、必ずそこに進歩がある。


我々の心は少し注意して、深く観察すると、自然の本能は驚くべき微妙さを持って、周囲に適応して反応している。しかしそれは一般に気付かない。求道の人は、この微妙な心をとらえ、見つけようと努力しているので、時々、「さてはこの調子だ」とか「この気合いだ」と気づくことがある。これを禅では「初一念」と呼んでいる。


自分は何も言えない。とても駄目だと見切りをつけたときに、心の選択がなくなって、事に当たった時に、パッと心が開ける。この、ぱっと開けた心境が「初一念」でしょう。そして「初一念」それきりならばよいけれども、「ああうまく話せたありがたい。この次もこんな風に出来たら良い」などと言う考えが起こると、それはすでにやりくりの選択になって、再びまたうまくいかないようになる。


会釈笑いもせず、しかめっ面ばかりしている人は、何時までも解けては来ず、人からも嫌われるようになり、先生に対しても、「ちっともよくならない」とか意地を張る患者は、何時までも不快の症状にとらわれて、その執着から離れることが出来ず、医者からも愛想をつかされることになる。

これに反し、少しでも良くなったことを喜び、感謝できるようになると、自分の良い面ばかり目につき、ますます症状が軽快してくる。


では人間は、どのようにして、卑しむべき人となるのだろうか。それは人が「純なる心」や「自然の人情」から発露する行為でなくて、誤った屁理屈にとらわれて、次第に理論の脱線を重ね、ついには不人情となっていくのである。

人は自分の思うようにならないことがあると、自分の分相応を考えず、自分の罪を他に転化し、人をねたみ、世を呪うと言う風になる。


 

 

 

 

 

 

実際に当たる


幼児が穴の淵に這いかかっている所を見れば、どんな悪人でも、「あれは人の子だから」と言う区別なしに、「危ない!」と思ってその子を抱き上げる。これを惻隠の心と言う。これはどんな人にも、自他の区別なしに、「物そのもの」になりきった時に起きる人間自然の心である。


無駄な仕事が嫌でなく、面白くなるにはどうしたらよいか。それは「物そのものになる」事である。潮干狩りやマツタケ狩りのようなものでも、値段や面倒さを功利的に考えては、お話にならないが、それを少しでも大きい奴を取りたいと競う時、時間のたつのも忘れてしまう。僕はハエを捕まえるのに、いつも数をがぞえる。後一匹で30になるとか言う時、家じゅうを探し回りちょうどの数にすることがある。万事忘れて物そのものになるのである。


仕事に熱中することを『遊戯三昧』と言っている。三昧とは、なりきっているということである。私はこれを「物そのものになる」と言う。診察をすればなんとか適切に治したい。風呂焚きをすれば、ごみをうまく利用して上手に効率的に炊き、一同にふろに入らせたいと思い、この原稿を書けば、なるべく人に読みやすく、理解しやすく直ちに有効になるようにと、一心不乱になる。これが三昧である。


僕は下駄屋で待つときは、下駄のすげ方を見ていて、自分で上手にすげることが出来る。時に女中の下駄までも、すげてやったことがある。人はこれを見て、「君子は義に悟り、小人は利に悟る」とか言うように、ある人はこれに感心し、ある人は軽蔑したりする。僕の身にとっては、どっちも当たらない。僕の感じから言うと、まだ十分使える下駄を捨てるのがもったいないと言うだけのことである。物そのものになりきるのである。


ここに入院している人は、どうしても修養と言うことにとらわれる。金物屋に言っても、待つ間は本などを読んでいる。「寸暇を惜しむ」と言う言葉にとらわれている。僕はそんなときは、展覧会でも見るように、何か面白いものはないかと、陳列品などを見回しているのである。

ひどいのになると、熱海にドライブしたときに、車の中で本を読んでいたのがあった。景色を楽しむということには無関係である。修養者はある意味偏人であり、周囲に適応せず、ただ自分の鋳型に収まっているのである。


ここで注意すべきことは、便所が汚いのを見かねてこれを清潔にするのは修養であるが、修養のために便所掃除をするのは邪道である。修養のために修行をするのは、小乗の教えである。大乗は実際に当たって、工夫努力の苦心をするのである。

必要に応じて、その目的に対して、ベストの努力をする。これが修養である。


「思い立ったことは、すぐに実行しなければならない」と言うことも最も良いことで、常にこれを実行するようにすればよいのです。普通の人は思い立っても、無精のために先延ばしをする。ただ我々は、思い立つことや様々な周囲の事情から、しなければならぬことが多いから、あれもこれもと、気がイライラするものです。それをますますイライラさせて、仕事の順序ややりくりを工夫していけば、それに越したことはありません。


練習ではない、実際である。例えば夜の仕事に雑巾さしをしたとしても、すぐにこれを運針の練習になるとか言っている。ちょっと心掛けがよさそうで、実はばかげたことである。雑巾はこれを使うためである。飯を炊く。練習なったとか、患者の日記に書いてある。よっぽどおかしい。高等教育を受けた人が、わずかの入院期間の間に、飯炊きや運針の練習をして、この人は果たしてどんな仕事をするつもりであろうか。やたら飯炊きの練習をされては、これを食わされる方が迷惑である。


兼好法師の言うことには、弓を引くとき、矢を二つ持ってはならない。必ず一つの矢でなければ、二つの矢を試す気持ちになって、真剣になれないから、結局二つとも当たらないことになる。試すとか手習いとかがいけないのである。


つまり練習と実際が一つになる。これが理想である。

およそ練習と言うのは、型であり、模擬であり、畳の上の水練である。実際生活から遠ざかるほど、ますます虚偽になってしまう。練習が役に立たないと言うのは、その弊害を強調したまでの事で、練習が必要ないと言うことではない。何事も常に、実際に当面する時は、真剣になるから、意外にうまくいくことが多いのである。


精神病になりはせぬかと言う平常の心配、および今にも精神錯乱するのではないかと言う、発作に対しては、いわゆる「恐怖に突入する」と申しまして、毎日明け暮れ仕事にも読書にも、絶えず精神病の事を気にしているようにし、また発作の時は、手足がしびれるとか、頭がガーンとするとか、気が遠くなるとか言う心持を、じっと見つめているように心がければ良いのです。


修養は実際を離れてはいけません。実際と修養が不即不離でなければならない。軍人としての勉強をすれば、即ちそれが修養であり、自身の向上になる。これに反して、いたずらに修養と言う机上論にとらわれるから、それが思想の矛盾になって、逆に人生に退歩するばかりになる。


私は常に、実行について「物事に当たって、これを見つめよ」と教える。例えば今大工の仕事を見る。その手際の良さに感心する。手伝ってみる。自分の不器用さが分かる。やり方を知る。工夫する。上達する。

なんでもただ現実を見つめさえすればよい。目を閉じて、空想し、机上論を弄して、事実を無視するのが一番いけない。


私の教えに従えば、例えば便所を見つめていると、いろいろ汚いものが目に付いてくる。少し我慢して逃げずにいれば、手を出すのは苦しいけれども、汚いままに放任しておくのも、気になって仕方がない。心の内には様々な葛藤があり、種々の思想が浮かんでくるけれども、結局これを実行したときに、初め想像していたよりも楽であり、そのきれいになった結果を見て、自分の力と善行とを喜ぶことになる。


先日某君に、ある花を枯らさないように頼んだところ、その人は一生懸命に、従順のつもりで朝晩水をやっている。花は咲き終わり、藁のようになっていても、まだ気づかないでいる。見つめると言う言葉にとらわれ、その周囲のものが見えない。枯れるものと枯れないものとの区別なども、少しも気が付かないのである。


水谷君が何ゆえに心機一転しないかと言うと、たとえ僕から叱られても、スレッカラシになって少しもびっくりしたり、うろたえたりしないからいけない。これに反して、あるいは腹を据え、丹田に力を入れ、想を練って、「叱られるのはありがたい、これが修養である、感謝こそすれ、腹を立てるべきではない」とか様々なへ理屈をつけて、頑張るからである。

あっさりとおとなしく、素直にはからう心無く、ハッとびっくりしさえすれば、たちまち心機一転するのである。


我々は人生の欲望に対して、常に念かけ憧れながら、その目的を失わず、しかも何かとその現在現在の事柄に対し、力の及ぶ限りのベストを尽くしているのが、「物そのものになる」と言う自然の状態です。そこに初めて「努力即幸福」と言う心境があるのです。


自分がしようと思っていたことを、人から指図されると腹が立ちます。自分が主体的にやろうとしていたことが、その人に主体性を奪われ、さらにその人の支配下になってしまうからであります。

我々の生命の喜びは、常に自分の力の発揮にあります。抱負の成功にあります。富士登山をして、歩けないほど足が痛くなったとしても、自分の損得にかかわらず、喜びと誇りを感じるのは、「努力即幸福」の心境に他ならないからである。


人が幸せを感じるのは、発展向上しようとする努力を置いてありません。人がもしこの努力を仕事とし、義務と感じる時には、その人の心は常にそれが労苦であり、もしそれを自分の気性とし、遊びごとと思う時には、その人の心にはこれが感興なのである。この努力の小さいものが小人で、大きいものが偉人である。


このように幸福は人生の目的であり、努力はすなわち幸福であるから、人生の目的はすなわち努力と言うことになる。そしてその人生の手段は努力であり、また人生の実際がこの努力なのである。


幼児の活動のありさまを見ていると、這えば立とうとし、立てば歩み寄り、高い所から飛び降りようとし、言語をマネし、根掘り葉掘り質問して物事の関係を究めようとしたり、砂や木片で形をこしらえたり、自分の権勢を張って思うがままに振る舞おうとしたり、団体を作って他を排斥しようとしたり、時々刻刻その努力をやめようとしない。この幼児の念頭には、およそ善悪とか将来の目的など無いけれども、それでも将来一人前の大人になるための修養として、必要なこと、しなければならないことなどを、努力すべきところは努力しているのである。


早川君は、いつも何かにつけて、思い込む癖がある。思い込めばそれが執着になって、心の働きが失われてしまう。以前にも「見つめよ」と言うことを教えたが、「見つめていなくてはならぬ」と思い込んでしまって、「心ここにあらざれば、見えども見えず」で、自分は何を見つめているのか、一切わからなくなってしまう。

見つめていさえすれば、必ず何らかの感じが起こり、心の働きが導き出されてくるところにあるけれど、早川君は、ただ固くなるばかりである。


何か仕事の見積もりをする場合でも、まずそれに関係したことに、何でも手を付けて、仕事をしながら考えれば、必ず思いがけない、うまい思い付きが出てくるのである。

いたずらに座り込んで、目をつぶって考えこめば、ただ考えが堂々巡りをするだけで、決して実生活に即した考えは、浮かんでこないのである。


今は私は、必要な仕事はそのまま目障りになるようにしておき、かつその山のような仕事は、それが出来上がるものかどうなるものか、その成功不成功とか言うことを度外視する。そして、これに対する心持と言うものは、きょうにも仕事中にどんな故障が発生するか、また自分も病気になるか、明日の事はどうなるかわからない。と言う、せんじ詰めれば諸行無常と言う世の中の一大事実に、服従し、順応しようとする態度である。


例えば私が入院生に、薪割りについて説明する。すると治りにくい人は、「なるほど」と思うことはせず、「どうも自分は不器用で、あんなふうにうまくできない」、『自分は何事も、すべて研究心が足りない』とか言う風に考えて、薪割りそのものに全く身が入らず、いたずらに自分の心の内面ばかり見つめている。はなはだしいのは、薪の方は見ないで、ひたすら目を閉じて、話の文句ばかりを考えている。


その日の日記には、「薪割りの講話で、非常に得るところがあった。我々は何事に対しても研究心を進め、興味を起こすようにしなければならない」と言う風に書いて、しかも薪割りの事はコロッと忘れ、振り向きさえしない。早く治る人はさっそく手を出して、教えられたとおりにやってみる。すると思いがけなく適切に切れる。そこでますます自分自身の工夫も起こり、ますます興味も出てくるのである。


手紙を書くにも、暇に任せて、ゆっくりと構え、便箋とにらみ合いをしているときには、良い文句も浮かばず、書き損ないなども多い。これに反して書く暇さえない時は、とりあえず宛名だけ書いて、目につくところにおいておく。目につくから忘れることはない。多くの人は、「手紙を書かねばならぬ」と言う風に忘れない努力があるために、心の自由な活動が出来なくなってしまうのである。

そんな心の屈託なしで、他の仕事を片付けている間に、いつとはなしに手紙の文句なども浮かんできて、手紙に取り掛かる時は、考え込むということなしに、スラスラかけるようになる。


僕が一週間も旅行して帰ってくると、机の上には雑多な書類が山をなしている。僕は着物を着かえながら、何かに目をつけて、一つでも二つでも整理を始める。決して仕事の順序を考えたり、時間の見積もりをしたりすることはない。


私は体が弱く、ちょっと階段を上ると息切れがする。しかし若いものと一緒に散歩などをするときは、ノロノロと、絶えず休みなしに歩く。相当長くてもくたびれない。ノロノロ歩くためには、足元の小石でも周囲の変化にも、皆心惹かれる事項となる。それが「休息は仕事の中止にあらず、仕事の転換にあり」と言う風に、周囲の様々な変化により、同時に仕事と休息が行われているから、特別に休む必要がない。


休息は仕事の中止ではない。仕事の難易度と、種類の変化をもって、疲労曲線に順応していけばよい。ぼんやりして時間を空費する必要はない。ただ食事後には新聞を読むとか、数学の後で掃除や買い物に行くとか、腕て穴を掘れば足で踏み固めるとか、哲学的なものを読んだ後は、歴史小説を読むなど、一定の変化がある方が良い。一番よくないのは、同じ仕事を終日続けることである。


裕福で大事にされて、わがまま一杯に勉強してきた人は、神経質になり、心の自然活動が鈍くなる。これと反対に、苦学して人の世話になったりした人は、却って実生活に即した勉強ができるようになり、仕事の転換なども、自由にできるようになるということが、想像されるのである。


なお「物の性を尽くす」と言うことは、例えば水を使うにも、洗面した水を取っておき、これを雑巾がけに使う。さらにそれを植え木などに散水する。こんな心持が習慣になっているから、震災の時などにも、困るようなことがない。


中庸に「物の性を尽くす」と言うことがある。つまり、物の用に立つものは、決してこれを粗末にしないということである。物を節約して金を溜めると言うことではない。金を大切なものとして節約すると言う人は、必ずその実生活に、様々な虚偽があることを発見するであろう。坪井君のように、実際に成功した人ならば、物そのものを大切にした結果として、貯金も出来たことであろう。


神経質が自分の気の小ささを病的なものとみなし、これを否定しようとして、ますます心の葛藤を募らせていくのが、強迫観念である。これを治すためには、ただ苦痛そのままに、決していろいろな自己批判をせず、純一に苦しんでいれば、苦痛そのままになり、意識から脱却してしまう。これか「煩悶即解脱」である。


急に心臓発作に見舞われ、今にも発作を起こしはせぬかと言う時には、当然居ても立っても居られないように、恐ろしいのが人間の常である。その恐ろしいことを恐ろしがるのが平常心である。すなわちあなたが、その時の恐ろしさになりきり、素直にこれを忍受し、いたずらに恐怖に勝とうとか、心を落ち着けようとかすることを、辞めさえすれば、それがそのまま平常心になって、心臓発作もたちまち全治するようになる。


もし小さなことが気になり、大きなことが気にならなければ、それは思慮の足りないことです。大きいか小さいかの見分けを良くし、大きいことならば、努めて心配するようにしなくてはならない。自分でも知っているような、ばかげたことの心配は、差し迫らぬことですから、ゆっくりと、暇暇に、道楽的に不安がればよいのです。


活版の字が、開きすぎていると気になる。それは我々の美的感覚から、不快であるから、これをもっと感じの良い開き方にすればよさそうなものだ。と言う考えが起きる。なにもそれがいけないことでもなければ、人並みでないことでもないのであります。ただあなたは、そんなことを感じたり考えたりしていては、勉強の邪魔になるからいけないと言うだけのことでしょう。


強迫観念も、逃げることが出来ぬ、治すことが出来ぬと決まれば、初めて全快するのである。近頃新聞で、良く女が強盗を追い払った、とか言うことが流行になったが、女はもともと、自分ではどうすることも出来ぬ、弱いものであると言うことを覚悟できているので、盲滅法に踏みとどまることが出来るのである。


書痙なり、そのほかの神経質が治るには、背水の陣と言うことが最も必要な事である。背水の陣とは、敵を前にして、川を後ろに陣をしいて、逃げることのできない状況にすることです。この時退却できないと分かると、突進して血路を開くよりほかに方法がなくなる。ネズミでも、正面からとびかかってこられたら、大抵の人が身をかわす。これを「必死必勝」と言い、「窮すれば通ず」と言う。


書痙の場合にも、まず第一に背水の陣で、自分は字をかけないものと決めて、指が震えても、腕がくたびれても、決して普通の筆の持ち方を変えてはいけない。そしてかな釘流に、字の形を作るような心持で、時間をかまわず、ノロノロ書くようにする。決して身の程を知らずに、手際よく書こうとするような野心を起こしてはならない。


入院中、「反芻癖に対しては、何とか治す方法はないだろうか、どんな心がけでいれば良いか」と言うことをおたずねした。先生はただ、「どうにも仕方がない」とだけ答えられた。

それでどうにも仕方がないなら、そのまま仕方なしに働いていたところ、いつの間にかすっかり治っていた。しかもいつ治ったのか、自分でもわからないのである。


気がもめると言うことは、同時に仕事もしたい、能率も上げたいと言うことである。これを切り離して考えることは出来ない。物事は常に両面を見なければいけない。死の恐怖ばかり見つめて、これにとらわれる時は、生の欲望のはつらつたることを忘れて、いたずらに迷妄を脱することが出来ないようになる。気がもめるという、不快部分のみを見る時、この気分を取り除いて、楽に仕事をしようと言う迷いを起こすようになる。楽に仕事をすることで、仕事がはかどるわけがない。


神経質の人は、ズボラやルンペンを見ると、物にこだわらなくて良いとか、無欲恬淡でよろしいとか言って、これをうらやむ。しかし修養が出来てくると、初めて自分が、物に拘泥し、面倒がり、あれもこれも欲望が強く、絶えず心がハラハラとして、向上発展の力が泉のように湧いてくることを喜び、感謝できるようになる。


香取さんは、努力が大切なことを力説されるが、これはただ説明のためであり、香取さんがずいぶん盛んに暇なく、事業に活動しておられるけれども、香取さん自身は、少しも努力と言うことを意識していない。ただ境遇のままに、先へ先へと活動しておられるだけである。私も人から見れば、絶えず勉強しているように思われるけれども、私は少しも努力を自覚しない。ただ心のはずみのままに、何かをやっているだけであります。


我々は木に登れば緊張し、畳に寝っ転がれば気が緩む。先生の前に出れば気が張り、家内と一緒だと気楽になる。畳の上で、木の上にいるような気持になろうとするのは、「裸になったと思え」と同様である。

しかし寝ていながら緊張するのは、どんなときかと言うと、今度はもっと高い木に登る必要があると言う風に、絶えず自分の仕事の計画を、先へ先へしているときである。また子供の遠足の前日も、同じである。気が張っているので、夜も値付けず、朝も早く目覚めるのである。


私は電車に乗る時、つり革を持たないで、本などを読んでいる。それで電車の揺れにも倒れず、乗り場を誤らず、スリにも遭わない。同時に四つの事について、常に心が働いているのである。こんな時ほどかえって読書の理解が出来る。

そのゆえ、私たちの注意作用は、絶えず緊張と弛緩のリズムがあって、同一の事に対し、常に一様の緊張で、注意を持続することは出来ない。


我々の心身の機能は、変化がなく無刺激の時は、何時とはなく弛緩して、倦怠感を生む。あるいは刺激は相当強くても、同じ状態が長く続くときは、何時しかこれに慣れ、変化を感じないようになる。即ち我々は、適度の刺激によって、その心身の機能が、ゆるんでいるときには、これを鼓舞し、過敏であるときには、これを緩和して、その生活機能を調節していくとき、私たちはこれをリズムとして感じるようになる。


心の働きが盛んなほど、その考えも盛んに起こり、ときとして、そのために苦痛を感じるようになる。このような場合に必ず心掛けるべきは、決して物事を抽象的に考えず、具体的に考えることです。ここにたびたび来れば、来るほど、精神修養になってよいことです。今度の二度目は、殆ど四週目であるから、十回来るには十か月、50回には4年ほどになる。その時には試験も合格し、学校の先生になっている。とか言う風に考えて行けば、空想でありながらも、筋道が立って、掴まえ所の無い不安とは違った心持で、心も落ち着いてくるのであります。