現代に生きる 森田正馬の言葉③


 

 

 

 

悩みには意味がある


神経質に生まれても、赤面恐怖に生まれても、何とも仕方のないことです。これを活かしていくよりほかに仕方がない。劣等感を起こすのは、人に優れたいためである。そのあるがままであれば、ただその欲望に従って向上一路よりほかになくなる。


それをいちいち自分を価値判断せず、自分は持って生まれたこれだけのものと決めてしまう時には、そこに人が笑えば、自分もその真似をして会釈笑いをし、お世辞の一つも言う稽古をするとか、飯炊きでも、自分は不器用であるから、人の真似をし、人に倣い、これを稽古するという気持ちになり、初めて向上心も安心立命もできるようになる。


「向上」とか「修養」とかの空言はしばらく後回しにして、すべて自分の心構えの仕方や「丹田の力」とか言うものは捨ててしまって、店の売り場の装飾とか、客に対する言葉のかけ方、お辞儀の仕方など、例えば客が入ってきて、店の品物を見回している。そんな時「何を差し上げましょうか」とか「いらっしゃいませ」とか言うべきか言わざるべきか、種々に迷うことが良いことで、その迷う心があってこそ、初めて客の心理や応対の仕方が研究されるのであります。


ところがこの完全欲が強いほど、ますます偉い人になれる素質である。完全欲が少ないほど、下等な人間である。我々はこの完全欲をますます発揮させようと言うのが、治療の最も大切な眼目である。


金さえたまれば、食うもの着るものどうでも良いと言うのは、完全欲に似て非なるものである。我々は自分の生命の欲求を、どこまでも完全にしなければならない。そうすれば必ず強迫観念の一方のみの捉われから、離れるのである。


はがきを書き直したり、原稿を書きつぶしたりするのは、神経質の完全欲のためだと思う。一度書いて見直すと、もっと良くしたくて書き直す。

はがきとか原稿を書きつぶすのは意志薄弱です。惜しげもなく捨てるのは完全欲とは言えない。書き損なえば、書き損ねないよう注意するのが完全欲です。


我々の最も根本的な恐怖は「死の恐怖」であって、それは表から見れば、「生きたい」と言う欲求であります。これがいわゆる命あっての物種であって、さらにその上に、我々はより良く生きたい、人に軽蔑されたくない、偉い人になりたい、と言う向上欲に発展して、常に複雑極まりない我々の欲望になるのである。


私は少年時代から40歳ころまで、死を恐れないように思う工夫をずいぶんやってきたけれども、「死は恐れざるを得ず」と言うことが明らかになって後は、そのような無駄な骨折りをやめてしまったのであります。


対人恐怖で言えば、人に笑われるのがいや、負けたくない、偉くなりたいとか言うのは、皆我々の純なる心である。理論以上のもので、自分でこれをどうすることもできない。私はこれをひっくるめて、「欲望はこれを諦めることは出来ない」と申しておきます。


人が死にたくないのは、生きたいが為である。病気が悩ましいのは、思うように仕事ができないからである。不眠を恐れるのは、そのために仕事の能率が上がらないのが悩ましいのである。赤面恐怖が苦しいのは、恥ずかしいことで困るのではない。そのために自分の優越欲を満足させることが出来ないからである。


「生の欲望と死の恐怖」と言うことは、必ず相対的な言葉であって、同一事項の表裏両面観であります。生きたくないものは、死も恐ろしくはない。常にこの関係を忘れてはいけません。


ハラハラと言うのは、あれもしなければならない、これもしたいという、欲望の高まることであって、これがために自分の異常に対して、一つ一つこだわっていられなくなり、そこに欲望と恐怖との調和が出来て、神経質の症状がなくなるのである。


恐怖感情は、ただそのままに持ちこたえていればよい。例えば電車通りに住む人がその音響も、さほど苦にならない。それは「うるさい」と言う気分を、そのままにしているからである。これに反して時計の音でも、もしこれを聞かないように、気に留めないように努力する時には、ますますこれが耳について、不眠症を起こすこともあるのである。


恋人に近づきたい、逃げ隠れたい。逃げれば胸がワクワクし、近づけば心臓が高鳴る。この「逃げたい」、「近づきたい」と言う二つの相対立した心を、精神の拮抗作用もしくは調節作用と名付けている。この対立が激しいほど、精神の働きが盛んである。


「愛児と散歩して、崖などを歩くとき、・・後ろから突き落として、もがくさまを眺めてやろうと言う心が起こる。・・」と言うのも、これに対して、恐怖の執着を起こしてこそ、強迫観念になるけれども、そのままに看過すれば、それは常態である。


地獄と極楽とは、同一事件の両面である。例えば私が病気である。これを裏から見れば残念であり不幸である。しかしこれを表から見れば、これさえも古閑君の保護により、行先の歓迎により、ともかくも目的を達することが出来る。こんな幸せがどこにあろうか。


感謝と言う言葉も、皆相対的なものである。恨むとか呪うとか言うことと対立したものです。希望と恐怖、苦痛と安楽とか言う言葉も、皆同じである。一円を得たということと、一円だけ働いたというのは、同一事件の両面です。その得た方を喜びと言い、働いたのを苦痛と言うのは、単に一面のみを取り立てて高唱し、注意を促すにとどまるのである。実は必ず同時に、切っても切れないように、接続連関しているのであります。


要するに臆病はそのまま思いっきり臆病し、心配はそのまま心配すれば、臆病心配しないようにと言う煩悶がなくなり、一方には自ら欲望の工夫が活動するようになり、苦痛の自覚がなくなるのである。これが我々の精神的事実である。


患者がのこぎりを木を切っているのを見た。その患者はのこぎりの種類を選ばないうえに、いくら切れなくなっても、平気で引いている。のこぎりの切れ味などまったく無頓着である。職人は道具を大切にして、常にこれを研いでいる。素人はその研ぐ時間で、少しでも木を切った方が、能率が上がると思っている。それは大きな思い違いである。素人が無駄だと思っている時間が、実は最も大切な時間なのである。


 

 

 

 

迷いからの脱出


「夢のうちの有無は有無ともに無、迷いのうちの是非は是非ともに非なり」と言う。迷いとは解決すべき論拠の無いことを、さも立派な論拠のあるように思い違え、煩悶することである。例えば「腹が減った時飯を食うべきか食わざるべきか」と決めれば何の思慮も世話もないことになる。しかし招待された時や、カタルの時など常に変化するものであるから、我々の日常では常に一つに決めることは出来ない。これを無理に決めようとするのが迷いのもとである。すなわち「食うべし」も「食ってはならぬ」も、是非ともに非なのである。


それはこうするのが良いと言う風に言えば、必ずあなたはその言葉にとらわれて、ますます強迫観念が複雑になるからである。あなたも強いてそのやり方を問いたいと言い張るのなら、その問いは決して治ることがありません。

それは「夢のうちの有無は有無ともに無、迷いのうちの是非は是非ともに非なり」と言うように、いくらこうしたらよい、こうしてはいけないと考えても、それはいずれも非であって、強迫観念を増すばかりになるのです。


神経質はこれに反して、その事柄よりむしろ自分の体の感じの方に、こまごま注意を集中し、その不快な気分に脅えるようになる。すなわちその事件は、とうに過ぎ去っても、ついにその事実とは関係を離れ、自分の恐怖にばかり支配されるようになる。


赤面恐怖は、優越欲、支配欲、負け惜しみ、勝ちたがりの反面であり、そのため劣等感や恨み言、過去の繰り言に悩むものであります。従ってその着眼点を恐怖のみに向けず、欲望の方に向けさえすれば、心機一転、強迫観念は治るのである。


神経質の心悸亢進とか頭痛とか言うものも、地震とか自分の子供が急病の時は、思いがけなく無理な活動ができ、あるいは一週間も不眠不休で働き、後に自分でも自分の強さに驚き、同時にいつの間にか病気も治っていることに気づくのである。


人はこの良心の発するところに従い、まず第一に自分が人に迷惑をかけぬよう、独立独行をはかり、わずかの借金にも、人に少しの時間をつぶさせたことにも、必ずこれを自分の負債、恩義と考えて、これを弁償、報恩するよう心掛け、「渇しても盗泉の水を飲まず」とか「李下に冠を正さず」とか言うくらいに、取り越し苦労する心掛けがあれば、自ら身を亡ぼすようなことは無かろうと思うのである。


神経質は自己中心的、智慧の周りが良すぎるために、自分勝手に都合の良いことを考え出すのである。すなわち自分の人生を完全にしようという大望を持ちながら、しかしそれを安楽に取り越し苦労なしにうまくやろうという、ずるい考えを起こす。たとえば苦労せずに金持ちになろうとする。強迫観念にかかっているものは、自己一点張りのため、決してこのことに気づかない。


現在に近い苦しみは身につまされるが、遠くになるほど心の刺激にはならない。しかし強迫観念ではこれが反対になる。たとえば肺病にいつかかるかもしれぬという、あてにもならぬことには非常に苦しい肺病恐怖と言うものになるが、実際に喀血でもしてしまえば、もはや強迫観念はなくなって楽になり、ただ肺病の養生のみに専念することになる。


自分の気分を第一に置こうとするものを気分本位と言う。毎日の価値を気分で判断する。今日は終日悲観しながら、一人前働いたという時に、悲観したから駄目だと言うのを気分本位と言い、一人前働いたから、それで良いと言うのを、事実本位と言うのである。


特に強迫観念の時には、原稿など書くことは出来ない。その当時僕は「気分などどうでもいいから、それと無関係に、ともかく筆を執る方が良い」と言うことを言った。その後倉田さんの話に面白いことは、「ともかくも」と書いたものが、その後興に乗って書いたものよりも、一番出来が良かったということである。


自分が間抜けであり、とんまであると思われないようにと言う、負け惜しみを断念して、自分は間抜けでありとんまであると覚悟を決めることを修養することが大切です。すると前に述べたように、もはや利口ぶることも笑われないように見かけをごまかす心がなくなって、物の取り扱いなどにも心が行き届くようになるのです。


学生時代に、互いに試験問題の話をするとき、相手はいろいろなことを良く知っている。自分はちっともわからないから悲観する。試験場を出ると、「俺は答案を何枚書いた」とか豪語している。私は一枚しか書けない。心配していると、自分の方が成績が良い。後でわかったことは、彼らは自分の知っていることしかしゃべらなかった。


その「無理にも」と言うことが「思想の矛盾」になって、強迫観念になるのである。「こうしなくてはいけない」と言うことが、葛藤になり、抵抗になって、自然の心の流れを閉塞してしまうのである。


先ほど対人恐怖の治ったという人が、前には人前に出ないようにし、今はなるたけ人前に出るという話があったが、すべて「どうする」と言う主義がいけない。金を使う主義とか、それらは皆机上の空論で、思想の矛盾となるばかりである。日常のその時々の事実に、適応することが出来ないからである。


努力主義を立てて、勉強しなければならぬ、読書に熱中しなければならぬ、と言う風に理想ばかり押し立てると、雑念ばかり起こって、興味を失い理解できず、ついには読書する事さえ恐ろしくなってしまう。

各々その感じはそのまま感じとして、興味にも沈溺しないよう、苦痛もこれを努力するようになれば、自らそこに調節が働き、読書も上手になるのである。


一番いけない心は「近ごすい心」で、自分の病気が治らなければ、会に出ても仕方がない、自分の症状さえ治れば、それで出席しないような人であります。近ごすい人は、けっして遠大な利益は得られない。


大西君は、まず決心する前に、戦争に行きたい、論文を書きたいという気持ちを作って、そののち決心しようとするから間違うのである。論文を書く気になるまで手を下さないと言って、その感情を頑張ろうと言うのが、強情と言うものである。


どうしても書けない時は、決心とか自信と言うものを投げ出して、ただ机の前に原稿用紙や参考書を並べて、静かににらめっこをしていればよい。これを短い時間で良いから、何回もやる。そして参考書を手あたり次第、でたらめに読む。これを何週間か、忍耐してやっていけば、自然と興が乗ってくる。ただ初めの皮きりが苦しいのである。


 

 

 

 

もつれた糸をときほぐす


「嫌なものが好きになる」、「不潔が平気になりたい」・「人前で恥ずかしくないようにしたい」、このように考えている間は、永久に強迫観念は不治である。ただこれを思い捨てる。すなわち「嫌いなものは嫌い」、「人前では恥ずかしいものである。」と事実そのままに見る時、容易に嫌いは好きになり、人前も恥ずかしくなくなるのである。


恐れなくしようとすればするほど、かえってますます恐ろしくなる。早く眠ろうとすれば、かえってますます眠れなくなる。これに反し、恐れるべきものを当然恐れれば、恐れまいとする考えがなくなり、考えがなくなれば、恐ろしくなくなる。つまり当然あるべき事実を、そうでないようにと、無理に作為しようとするのが、いわゆる「思想の矛盾」である。


苦痛は苦しい、努力は骨が折れる。これは柳は緑、花は紅と言うのと同様であるがままの如実である。なのに苦痛や努力は人生の当然であるから、これを肯定し、苦しいと思わず、満足としなければならないと言う時に、花は緑、柳は紅に感じなければならないと言うように、ここに思想の矛盾が起こり、事実唯真と言うことがなくなり、強迫観念が発生するのである。


外来の不眠患者に対し、私が「眠らなくても、少しも差し支えはない」と言うことを教えて、患者は「ああそうですか」と言って、その晩は熟睡できたということです。非常に喜び、「ああ、こんな具合に、眠らなくて良いと思えば、よく眠れるのだな」と思い、次からその通りにしようとすると、ただちにその考えが思想の矛盾になって、次の晩から眠れなくなる。


「もっと心地よく寝ていたい」と言うことと、「ズボラではならぬ、起きなくてはいけない」と言うことの間に、葛藤のある間は、なかなか起きられない。「思い切って、床を蹴って起きなければ」とかなんとか都合のいいことを考えながら、ちっとも床を蹴らない。


「どうすれば早起きが出来るか」とか「どうすれば読書の興味が得られるか」とか考えるうちは、ますます悪智から脱することが出来ないようである。


私の話に「過ちて皿を割る。驚きてこれをつなぎ合わせてみる。これ純なる心なり」と言うのがある。この時「ああ惜しいことをした、何とかならないかなぁ」と思いいる。ただそれだけの心が伸びれば、今後そのような過ちを繰り返す事はない。これに反して『自分は劣等である。人は自分を笑うだろう、再びこんなことが無いよう注意しなければならぬ」と思うほど、これが悪知になって、再び同じ過ちを繰り返すのである。


こまごまと自分の不眠を観察すると、注意と恐怖とが、交互にますます発展して、実際には眠っていても、自分の気持ちの上では、全く眠っていないように感じるのである。その交互作用とは、不眠に注意を集中するほど、ますます眠れない状態が明らかになり、これを恐怖するほど、ますます注意がその方に集中するようになるという関係を言ったのであります。


「はからわざる心」も、一つの心の態度であるが、これを教えられる人が、一つの事実として見ず、一つの手段として考える時、「はからわざらんとする心」かすなわち「はからう心」になって、「一波を以って一波を消さんと欲す、千波万波こもごも起こる」というふうに、ますますこんがらがってくることに注意しなければならない。我々は何かにつけ、常にはからっている。これが我々の心の事実であり、精神の自然現象である。すなわち「はからう心」そのままにある時、「はからわぬ心」であることも考えなければならぬ。


「苦痛を苦痛として、受け入れるようにしよう」と言うことは、その「受け入れよう」が思想の矛盾となって、その受け入れることがますます苦しくなる。普通の人は、平常「受け入れる」とか入れないとか、そんなことを考えているのではない。ただ苦痛は苦しみ、面白いことは面白いと喜んでいるだけである。


我々は常に何かにつけて、疑い迷い、はからうものである。それがそのまま、われわれの「あるがまま」の心である。それをそのままに、あるいは森田に任せ、あるいは境遇、運命、自然法則、さては「良き人の仰せに従いて 弥陀にまかせまひらする」ことが、すなわち「はからわない心」である。これをわかりやすく、例えば小児がむずがり、だだをこねながら、母親の懐に抱かれている有様である。


かくあるべしという、なお虚偽たり、あるがままにある。すなわち真実なり。


疑いを疑うのは、どこからどこまででも、少しも差し支えありません。ただ疑うことの不安が苦しいから、ごまかしても、その疑いを手っ取り早く片づけ、解決して安楽になろうと言うのが卑怯なことです。釈尊でも昔の学者でも、大疑のために、いかに苦心惨憺たるものがあったか、ただ真一文字にその苦しみを突破して、研究体験を重ねたから、初めて偉人になったのである。


「リンゴはなぜ上に落ちずに、下に落ちるのか」・・こんな下らぬことばかり考えるから、気が散っていけないとか、何かにつけてはつらつと起きる疑問や問題を否定したり、排除しようとするから、心の自然な流転も止まり、われとわが心を苦悩のうちに追い込むようになる。


「それ以来、非常識な事ばかり心に浮かんでくる」と言うのも、「思わないようにしよう、口にしないようにしよう」と努力する結果であって、努力すればするほど、明けても暮れてもそのことばかりに心が捉われるようになるのです。


「この盆栽に水をやるのを忘れないように」と注意すれば、「どうも自分は気が付かない」と言う風に、言われた文句と自分の都合ばかり考えて、盆栽の事を見つめようとは少しもしない。すなわち注意された一つの盆栽にばかり水をやり、他の水の切れている盆栽については、水をやることさえ気づかない。また翌日は、もう盆栽も花も自分とは無関係である。これを「お使い根性」と称し、「この盆栽に水をやる」と言う文句だけのお使いをして、盆栽を世話して育てると言うことには注意を払わない。


正しい理解は、病にかかりはせぬかと言う心配は、その病にかかるよりは、非常な幸福であるということです。迷いのうちにあるものは、こんな平凡なことが分からず、その心配が、皆無になってしまえば、もっと良い。いやサラリと心配がなくなってしまわなければならぬと言う風に、無理な強情を張るのである。もしこの「本当の病よりも、心配の内が安全である」事に気づけば、私の「自然に服従し、境遇に従順なれ」と言うことの初めで、その病の治るきっかけになるのであります。


暑さでも対人恐怖でも。皆受け入れるとか、任せるとか、あるがままとか言ったら、その一言で苦しくなる。理屈を言えば言うほど、そのことに気が付き、心が執着するようになる。

今あちらの大工の音が、相当やかましい。しかしそれをあなたは僕に言われるまで気づかなかったでしょう。それは当然の事として、うるさいのを受け入れるとかなんとかの批判はせずに、そのままになっていたからである。


出世したいということを忘れ、課長の前で恥ずかしがり、立派な妻を得たいということを忘れ、下等な女をもてあそぼうとするならば、皆自分の心底の性情即ち欲望の捨てがたいということに気づかず、誤った見解、屁理屈を持って、目前の苦痛から逃れようとする卑怯なる心がけである。


神経質が心に満足のある人になるか、不満煩悶の強迫観念になるかの分かれ道は、神経質は物事を深く理屈で考える性情であるから、例えば子供に対して、どうすれば子供が喜ぶか、と言う方向に考えをめぐらすと言う風であれば、心は外向的となり、物そのものになりきり、心に拘泥がなくなります。それに反して、自分は子供に愛がない、不人情である等と、いわゆる内向的に自分の心のみを観察批判すれば、子供と自分との実際の相対的事実を離れ、いたずらに空想にふけり、強迫観念が発展していくのである。


私のやり方では、「感じから出発する」と言うことで、ある自由自在なる心の働きが得られる。これを自覚と言って、悟りのような心境であろうと考えているのである。


我々が茶漬け飯をザブザブかき込むとき、箸と茶碗の持ち方、特に左手の茶碗の回転具合は、非常に微細な動きであるけれども、この方にはほとんど気が付かない。意識は飯をこぼさないようにとの目的ばかりに言っている。

また球投げをするときは、球の方にばかり意識を集中していさえすれば、適切に球を受けることが出来るけれども、意識が自分の手の位置とか、腰の動きなどに向かうようになれば、球を受けることが出来なくなる。指をケガしたときなども、意識がそちらに引っ張られるから、球が受けられなくなる。


地下鉄で浅草に行く。今日の様に雑踏にもまれたのは初めてである。絶えず心がハラハラしていた。ハラハラしている方が、落ち着いているときよりも、楽であることを知った。従来ならば、こんな時は、落ち着こう落ち着こうと腹式呼吸をしたり、人を見下したりしていた。人間の心は風船のように、いつもフワフワ漂っている。空中を漂っている方が、風船にとっては安定である。風の吹くまま、流されているから、なかなか破れることもない。これに反し、風船を一定の場所に固定しておくと、少しの風で簡単に破れてしまうのである。


お手紙にある「そのままを実行できず、そのままに執着し、そのままを確信してから・・」とか言うことは「思想の矛盾」であって、寒いは寒い、苦しいは苦しい、取り越し苦労はそのまま取り越し苦労、曲がった松は曲がった松。これに対して実行、執着、確信だとか、そんなことがあるはずはありません。寒さを寒いと感じることを実行したり、曲がった松を曲がった松と確信することがどうしてできましょう。寒さをことさら寒いと確信しようとし、一歩歩いて、さらにこれを一歩歩くことを確信すれば、一歩が二重になり、逆戻りになって進行が出来ません。執着するとは、寒さをあるがままに寒いと感じることを実行して、寒さに無関心で平気になろう、心配をあるがままにして、安楽にしようとする自分の心に野心のあることに気づかないで、「あるがまま」を口実にして、苦悩を逃れたとしても、当然できぬことであるから、「苦しい」と「苦しいと思わないように」との二つの葛藤が絶えないようになり、これがすなわち執着であります。