現代に生きる 森田正馬の言葉①


 

 

 

今ここ、このままで。


五尺一寸を正直に自認しようとすれば、なんだか心細い。少なくとも五尺三寸くらいに思いたい。人前で固くなる、気が小さい、試合の時には足が震える、そのままあるがままに考えることは、なんだか浮かぶ瀬の無いような気がして苦しい。もっと気を大きく、朗らかにすれば、いくらか君子らしくなるかもしれない。と言う儚い考えが浮かんでくる。そこでいろいろ小細工を弄して、臭いものにふたをし、われとわが心を欺いて『自欺』と言うことになる。


神山さんが「とても恥ずかしいけれども」と言って自分を投げ出したが、その立たない前には心がハラハラして、随分苦しかったであろう。このように自分をそのまま打ち出した瞬間から、まったく恥ずかしくなくなった。これが「あるがまま」であり、恥ずかしさになりきった時のことである。


「悟らぬままが悟りである」と言う言葉がある。これをそのまま受け取ると、赤ん坊や白痴は悟りであり、草木はそのまま成仏することになってしまう。それではいけない。煩悩が大きいほど、その涅槃も大きく、学校も年月が長いほど、その卒業も立派であり、強迫観念が激しいほど、その悟りも大きく解脱が大歓喜になる。

富士登山が困難なほど、その頂上到達が嬉しいのである。


「あるがまま」と言われたら、「ははあなるほど」と受け取ればよい。隊長が「右向け右」と言えば、自分はただ右を向きさえすればよい。自分で改めて、号令をかける工夫をしてはならない。それは「あるがまま」の詮索である。


「あるがまま」になろうとしては、「求めんとすれば得られず」で、すでに「あるがまま」ではない。あるがままになろうとするのは、自分の苦痛を回避しようとする野心があるからで、苦痛は当然苦痛であるところの「あるがまま」とは、まったく反対になるのである。「眠れなくても体に障ることはない」と言われ、「なるほどそうか」とすればたちまち不眠は治るのであるが、「そんなことで安眠が出来るものなら、そうしよう」と言えば、もはや決して眠れないのである。


今思いつくままに、科学と宗教を比べてみると、化学は物を如実に見る工夫をするのと、宗教は『人はこうあるべき』と意志的に努力することが違う点ではあるまいか。ここに「物事は嫌でも肯定しなければならぬ」と言う考えが起こってくるのであろう。つまり、「柳は紅に、花は緑」に感じなければならぬということになり、ここに思想の矛盾が起こり、強迫観念になるのである。


「夏が来れば暑い」、「それなら暑いと思っていれば良いか?」と問うてはいけない。思わなくても暑いから、そのままでよろしい。夏は暑い。嫌なことは気になる。不安は苦しい。雪は白い。夜は暗い。何とも仕方がない。それが事実であるから、考えを工夫する余地はない。


本当の大悟徹底は、恐るべきを恐れ、逃げるべきを逃げ、落ち着くべきを落ち着くので、臨機応変ぴったり人生に適応し、当てはまっているのを言い、人間そのものになりきった有様を言うのである。


泥棒をすれば監獄に行く。食べ過ぎれば下痢をする。ごろ寝をすれば風邪を引く。事実唯真どうにも仕方がない。ただ事実に服従する。仕方がないから往生する。これだけのことで強迫観念が治る。

泥棒をして捕まらないようにしよう、いかもの食いをして下痢しないでおこうと虫のいい考えをするから、強迫観念にもなるのである。


私の療法は「事実唯真」、「事実にあらざればまことにあらず」と言うことを、最も大事とする教え方であります。「事実」と言うのは、「夏は暑い」、「嫌なことはうるさい」、『人を殺せば死刑になる」、『人に親切にしなければ可愛がられない』と言うような事であります。


つまり心は、どっちにやっても、ただ一途になってはいけない。徒然草に「碁を打つに、勝たんと打つべからず、負けじと打つべし」とあるが、どちらもいけない。ただ勝敗を超越し度外視して、その時々の現在になって、一挙手一投足をゆるがせにしないようにしさえすればよいのである。


我々の精神活動にも。表裏両面の見方がある。すなわち欲望と恐怖、成功と苦痛との両面である。この両方が調和し平均する時に、恐怖も苦痛も、自覚から消失する。登山や病気の後に、自分はあれほどの困難にも危険にも、打ち勝ってこられた。将来あれ以上のことが出来るかもしれぬと考えたとき、それは大いなる喜び、希望であり、決して恐怖や不安ではない。


ただ自分はどこまでも欲張るものであることを認めるとともに、以前より良くなったという事実を認めなければならない。10のうち一つでも治れば全部治る。一つ治らないと言って苦にすれば、また10になる。10のうち一つ良くなったという事実を認めればよい。


世の中の人は、このきわめて見やすい事実を会得することが出来ず、いたずらに楽ばかり求め、恐怖のみを否定し、臆病を排除しようとするから、そこに様々な迷いを生じ、事実唯真を体験することが出来なくなってしまうのである。


糞を思い出せば、においを連想し、人から恥辱を受けたことを思い出せば、悔しくなる。当然のことです。もし臭くなく、悔しくなければ、それは糞ではなく、恥辱でもないのです。


その恐怖に襲われる。ああ苦しい、ああ恐ろしいとそのままになることを、「なりきる」と申します。夏は暑い、冬は寒い、何とも仕方がない。これを心頭滅却と言い、なりきると言うのであります。


座敷の掃除をするにしても、女中根性でするのと、入院患者の修養根性でするのと、あるいは自分の部屋を自分でするのとでは、そのハタキをかける音が異なるのである。

女中は給料を得るために景気良くたたく。修養者は「何でもちゃんとやらねば」と頑張っているから、ほこりの多少にかかわらず、同じように単調にかけるだけである。自分の部屋を掃除する時は、きれいにしようという気持ちがあるから、ハタキのかけ方も緩急がありより複雑である。


人のものを壊したときに、「過ちて皿を割り、驚きてこれをつなぎ合わす これ純なる心なり」と言っているように、「ああ惜しいことをした 何とかならないだろうか」と言う風であれば、「物そのものになる」であるが、「ああしくじった、上司に叱られないだろうか」などと考えれば、自他の区別が激しく、壊れたものは平気で、唯自分さえ罪を逃れられれば良いと言う風になる。これを「悪知」と言う。


「苦痛」と言うのは、苦痛と名付けることもしくは考え方であり、また「苦しい」と言う感じで主観的なものである。だから精神的でも身体的でも、それを苦しいと考えることは同様である。いずれが苦しいという区別はない。苦痛そのものになりきってしまえば、そこに比較はなく、絶対になるから、苦痛と名付けるべき何物も無いのである。


たとえば気分が悪い、むかむかして吐きそうである。こんな時は決して心を紛らわそうとせず、一心不乱にその方を見つめているしかない。息を詰めて吐かないように耐えている。この時「吐けば楽になるだろう」などと気を許してはいけません。

苦痛ばかりを見つめていると、ますます気分がめいりそうな気がして、つい他の事を考えたくなります。こんなことをするからつい気が緩んで、あとわずかと言うところで吐き出してしまうのである。


電車で窓際の人が、本人は気づかないけれど、その眼球は絶えずピクピク動いている。これは無意識のうちに外界の変化に調和活動しているのである。刺激そのままになりきっているので、本人は何の苦痛も感じない。それに反して電車に酔うような人は、外界の刺激に対して、目をつぶったり、心を落ち着けたりしようとするから、ますます気分が悪くなるのである。


課長に頼みたいけれど恥ずかしい。旅行したいけれど心悸亢進が恐ろしい。このような場合にも、いたずらに欲望と恐怖との二途を追うことをやめて、恐怖は恐怖そのままに、欲望に向かって前進する時に、初めて生滅が尽きて安楽の境地が得られるのであります。


「これくらいのことは我慢しなければならぬ」とか「これではとても耐えられない」とか、苦痛の大小、軽重を比較批判する時に、そこに苦痛は眼前にありありと現出して、ますます耐えられないようになる。


自分は気が小さい、劣等であると行き詰った時に、そこに工夫や方法も尽き果てて、弱くなりきる。と言うことになる。この時に自分の境遇上、ある場合に行くべきところ、しなければならないことなどに、静かにこれを見つめて、仕方なく思い切って実行することである。これが「突破」するということであり、「窮すれば通ず」と言うことである。


弱さに徹するとは、虎穴に入る場合も、大胆に平気になるのではない。びくびくしながら行くことである。赤面恐怖で言えば、恥ずかしがらないようにするのではない。恥を恥として、それになりきる時に、初めて恥を超越できるのである。

自分は貧乏だ、小学校しか出ていない。だから金持ちや大卒の人には恥ずかしい。恥ずかしくなくてはならない。恥ずかしいからじっとしていられない。働き勉強する。向上一路より道はなくなる。


我々は人生の欲望に対して、常に念がけあこがれながら、その目的を見失わず、現在の力の及ぶ限りのベストを尽くしている。これが「現在になりきる」事である。しかもその時は、自分で努力も苦痛も超越して、これを感じない、意識しないのであります。


実際苦痛に行き詰れば、素直な人ならば、必ずそうなるはずです。素直でない人は、いくら行き詰ってみても、なお行き詰らなくて、いろいろな工夫をやめない。そうかと思えばあきらめようとしたり、勇気付けをしてみたり、様々ことを工夫するから、ますますいけないのである。


将棋を指すときに、負けたら悔しがり、勝ったら喜ぶ。その時何番やって何度勝ったかと言うことは、少しも覚えていない。ただ現在になるばかりである。したがってその時の勝ちの誇りも、負けの恨みも、少しもその後に残らないのである。


私でももとより、今でも何かにつけて、時々胸のふさがるような思い出の残る時がある。そんな時自由に大胆に、捨て身の態度で、思うがままに、思いを進めて行けば、その流れ去っていく有様は、不思議なほど早いのである。


これに反して思い開きのできない人は、まず自分の胸の苦しさに肝をつぶして、もしこんなことを思い続ければ、身も世もあらぬことになるだろうと、これを思わないように、気を紛らわせるようにと、心の葛藤を起こすようになる。これがすなわち煩悩である。強迫観念と同じである。これが一般人の、人を亡くした悲しみから、何時までも離れることが出来ない理由です。


柔術でも、初めのうちはどうしても、逃げ腰と反抗的な態度が出ることは、何ともすることが出来ない。そんな間は容易に投げられるし、ケガもしやすい。それが次第に上達して、初段くらいになると、自然に捨て身の態度が出来て、敵の身辺に寄り添い、くっついていくから、敵も手の出しようがなくなるのである。


良くも悪くも、自分は自分であるより外に仕方がない。と言う気持ちが自覚によって定まると、性格も座って、降りかかる運命に泣き言を言わず服従することが出来るようになる。そうして腹が座るのである。この時はじめて周囲の境遇の変化に応じて、気安く、心軽く受け答えできるようになる。


一口に言えば、つまり価値批判を超越することで、読書に限らず何事も気安く手を出して、何も得るところが無くても元のもの、少しでも得るところがあれば儲けもの、嫌ならいつでも投げ出す。と言う心持であるから、結局は捨て身の態度と同様です。


神経質は、言いたくてたまらないで、しかも大事を取るから、心の葛藤が非常に強い。これを一歩間違えば、言おうか言うまいかの堂々巡りの迷いになるが、これが一転してよく場合を考え、適切な文句を工夫すると言うようになれば、上等である。


数日のうちに旅行しようとする。ふと地図を持って行こうと思いつく。それをトランクに入れる。タオルも忘れないようにしようと思い、すぐに用意する。

以前はこんな簡単なことが出来なかった。まとまった時間を費やして、手抜かりのないように準備万端整えようとする。その準備疲れのためにかえって忘れてしまうのである。


私にとって「死」と言うことは、いかなる場合においても、絶対的に恐ろしいものである。たとえ私が125歳まで生きたとしても、その時に恐ろしくなくなるということは、決してないことを断言できる。私は子供のころから「死を恐れないよう」に様々な工夫を講じてきたけれども、「死は恐れざるを得ず」と言うことが分かってからは、このような無駄骨折りをやめてしまったのです。


「死は恐ろしい」、「生きるのは苦しい」言い換えれば「死を恐れず、思うままに人生を楽しみたい」と言うことになる。これが神経質の特徴であり、無理に自然に反抗する形になる。死は当然恐ろしい。大いなる希望には、大いなる困難があることを覚悟しさえすれば、それだけで神経質の症状は消失するのである。


この心の葛藤が起これば、仮にどちらか、一方に決めてみる。すると都合の良い時は、じきに解決案が浮かんでくるし、都合の悪い時は、心はいつの間にかほかの事に流転して、前の執着からはなれると言う風である。こんなことは皆さんの自己内省により、自覚を深く進めて、容易に知ることが出来るものである。


「前に謀らず、後ろに慮らず」

自分がこんな病気になったのは、あの日に流感を押して講演などやらなければよかったのに・・」のように過去の失策の繰り言を言わないのを「前に謀らず」と言う。「後ろに慮らず」とは、旅行の途中で病気になったら、死ぬようなことになってはと、未来の取り越し苦労をすることです。結局は自分の欲望を乗り切るために、その現在現在において、戦々恐々、注意に注意を重ねて、間違いのないようにし、その上もしいけないことがあれば、それは天命であり、倒れて後やむのみである。


不安定とは、客観的な日常の事実であり、安心は主観的な想念である。風向きや天気のように絶えず変化することが日常の不安定の事実であり、これを事実そのままに見るところに安心があり、嫌なことも苦しいことも、ことさらにこれを嫌と思わず、苦しいと感じないようにしようとするところに心の葛藤が起こり、いわゆる思想の矛盾になって、強迫観念になり、不安心が起こる。


座禅をするときには、平常心になることが出来るが、電車で卒倒しそうになる時は、とても平常心にはなれない。どうしたらよいものか?  あなたが言われることは少し間違っている。死は恐ろしい、腹が減ればひもじい、電車に乗れば恐ろしい、それが平常心ではありますまいか? 

恐ろしいなら恐ろしいままの心、恐ろしくないなら恐ろしくないままの心、それが平常心である。


電車の中で、今にも死にはしないかと思う時は、当然不安である。そのあるがままの心が平常心です。すなわち電車の中で、その恐怖心そのままになりきって、逃げ出したりお巡りさんを呼ぼうとしないで、じっと忍受していれば、そのまま発作は経過し、苦悩は雲散霧消する。


平常心と言うのは、当然の心、あるべきはずの心、即ち我々の心の事実です。夏は暑く、冬は寒い、心臓麻痺は恐ろしい、腹が減れば飯が食いたい、木に登ればハラハラするし、畳に寝転がっていればハラハラしない。これらの当然の心が平常心である。

その患者は電車に乗って心臓麻痺を想像しながら、しかも畳の上で座禅をするときと同じ心持になりたいと望み、それを平常心だと思い違いをしているのです。


心臓麻痺恐怖の人がいる。医者は問題ないと言う。これは客観的事実である。しかし本人はやはり恐ろしい。これは主観的事実である。この時患者は「大丈夫」と言う客観的事実と、自分は怖がるものである。と言う主観的事実を認めなくてはならない。それがあるがままである。


ここでは一切、自分の気分や想像で、「良くなった」とか「分かった」と言うことは問題になりません。ただ「治った」と言う事実が大切です。体重が増したとか、終日よく働くようになったとか、機転が利くようになったとか、そういう事実を観察して初めて治ったということが、決定するのであります。


暑いのは、どうしたって暑い、人前では恥ずかしい、それは我々の心身の事実ですから、どうすることもできません。また、どう思えばよいかと言うこともありません。耐えても耐えなくても、思っても思わなくても、暑いことには相違ない。例えば熱が40度になったとします。苦しい、どうしたって苦しい、これをどう考えれば良いかとか、自分に耐えられるかどうかとか、理屈を言えば言うほど、ますます苦しくなるのです。


周囲がやかましくて、勉強が出来ないと言って、山の中などに転地することがある。それでも風の音や水の音などがある。ついに耳の中からも耳鳴りがするようになる。これが我々の心の事実であり、決して逃げることのできないものである。

一度この事実を体得すれば、いかなる喧騒の中でも、勉強ができるようになる。


病は苦しい。仕方がないから我慢して時節を待つ。これが自然に服従である。医者の指示は否応なしに守る。これが境遇に従順である。

人には様々な迷いが起こる。その煩悶を思い捨てようともがく。これが自然に不服従である。迷いのために、良い就職口もそのチャンスを逃し、親の気に入る結婚口も決することが出来ない。これを境遇に不従順と言う。


今私は腹が減った。それを「苦しいと感じたり、食べたいと思ってはならぬ」と言わず、その感じ考えのままに従っているのを、「自然に服従」と言い、今お腹を壊しているから、食べすぎてはいけないと、我慢しているのを「境遇に従順」と言う。これが感じと理知の自然の状態であり、最も安楽な心の態度である。


「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」と言うことがある。「今度あの風が吹いたらなびいてやろう」と言った態度が少しもなく、柳の枝は弱いままで、素直に境遇に従順であるから、折れることなく、自由自在なのである。

『自分は手が震える。思うように動かないものである。」と覚悟し、そのまま従順に、必要やむを得ないことには、仕方なく筆を使うようにする。すると「柳の風」のように、いつとはなしに、自由自在に動くようになる。


我々の仕事なり職業なりは、周囲の境遇、つまり運命によって定まることが多い。したがって富裕で何でもできるような人は、いたずらに仕事に迷うことが多く、何も成し遂げられずに終わることが多い。それに対して貧乏な人は、境遇に従順であるより仕方がないから、ますますその才能を発揮することが多い。野口英世、後藤新平、エジソン、みなその好例である。


迷妄より脱しようとしたり、のんきに暮らそう、などと考えるのは、みな「自然に反抗」であり、「解決するまで上の学校に行かない」というのは、まったく「境遇に不従順」である。

もし秀吉が武士になる見込みが立つまで、何もせずにいたとすれば、どうなったことでありましょう。今日の失業者は、しっかり給料が得られる見込みがなければ、手を出さないと言う人が大部分である。ここは心の置き所を変えて、境遇に従順になりさえすれば、立身出世は必ず請け合いかと思います。


彼の顔が長ったらしいとか、声が甲高くて気に食わないということでも、強いて自分の心に反抗せず、そのまま毛嫌いしていれば、次第にその不快な感じになれて、気に留めなくなり、また一方にはその人の長所を発見して、目元がかわいいとか、気合が良いとか言うように、その人が好きになってくることがある。


兄弟家族とか、同級生とか言うものは、その境遇上仕方なしに、いつも一緒にいるために自然と「境遇に従順」になるために、少しくらい性格の不一致があれども、何とはなしに親しみが生じ、あい離れるのが苦しくなるということも、皆自然に従うための結果である。


憎む心、嫌う心そのままに反抗することなく忌み嫌っていれば、何とはなしに自分の憎む心に卑劣を感じ、自分から憎まれる相手の心がかわいそうになり、それから次第に相手の長所、愛すべき点も公正に観察できるようになります。それがいつしか哀憐の情となり、普通の恋愛よりも、かえって充実した愛情が発育してくるのである。


今私が「試験を受けなさい」と忠告する。その時本人は「こんなに頭が悪くては、受かるはずがない」と考える。それを「我」と言う。しかしせっかく森田がそういうから、「良き人の仰せに従って、一かバチが、行きつくところまでやってみよう」と言うのが平たく言うと「試みる」ことであり、上品に言うと「任せる」と言う心境である。この『我』と「試みる」と言うことが意識的に自覚して、はっきりと心のうちに両立し、実行に現れるのを「従順」と言うのである。


僕の言うことを聞くと簡単に治る。治った人の真似をすれば治る。屁理屈を言う人は治らない。まことに厄介です。


「こんなことで治るなんて不思議なことだ、合点がいかぬ」と思いながらも、黙々として、その通りに実行化するのを「素直」とか「従順」とか言うのである。素直とは、自分ではわからぬながらも、自分の信頼する人に教えるままに、『そうかなぁ』と思いながらも、試しにやってみることである。

「分からない」と断言して、少しも実行しようとしない人がいる。これが横着であり、強情な人である。こういう人は治らない。


嫌なことを嫌でなくしておいて、それから手を出そうと言うのが、神経質の特徴であり、ずるがしこいところです。試験勉強は当然苦しい。だから「勉」め『強』いると書くのである。それが面白くなったとしたら、それは「試験道楽」とでもいうべきものだ。その苦しいのを面白くありたいと思うところに、読書恐怖になるのである。

心のうちの感じはどうでも良い。我慢して勉強するのを従順と言う。


 

 

 

 

 性格を活かし、新しい自分で生きる


『啐啄同時』と言う言葉がある。「啐」とは卵からひなが生まれる時、自然に成熟して殻を破って出てくることである。「啄」は、母親がそれをつつき割ってやることである。ここで母親が慌てて早くからを壊してしまうと、ひなは死んでしまう。また遅すぎても、ひなは窒息して死んでしまう。すなわちひなが完全に生育するには、「啐啄」が同時でなければならない。


「破邪顕正」と言う。真理を発見するには、必ず迷妄を明らかにし、見破ったのちでなければならない。白い色を認識するには、必ずその他のすべての色を否定したうえでなければならない。否定の研究が必要なことは、これがないと正しい工程を確保することが出来ないからである。

倉田氏も、強迫観念の試練が無かったならば、悟りを得ることは出来なかったであろうと言われている。


またここの全治患者の言うことであるが、自分の不眠や赤面が治ったことは嬉しいが、もっとありがたいことは、日常生活で能率が上がるようになり、人生観が変わったことである。と言ったことを述べる。

しかしこれはものの本末を誤り、部分と全体とを取り違えたものである。それは人生観が変わったから、症状が良くなったのである。


行方君などは、一年半も会社を休んでいる。山の井君でも随分長期間、会社を休んでいる。しかも免職にもならず、会社から厚遇されている。書痙で全く仕事が出来なくてもこの通りである。このように会社から信用があると言うことは、どういうことでしょう。神経質の地味ではあるが忠実であるということかもしれぬ。我々は神経質に生まれたことを感謝すべきである。


不眠でも赤面恐怖でも、これを治そうと思う間は、決して治らぬ。治すことを断念し、治すことを忘れたら治る。これを私は「思想の矛盾」と説明してある。岸辺の景色が水面に影を映すようなものである。観念と言う水が無ければ、唯景色そのままの事実があるのみである。


神経質が不眠や強迫観念を治したい。苦しいことが楽になりたい。それは当然のことである。しかしこれは病気ではない。だから治すべきものではないことを知れば、これを度外視し、普通の人のように働くことが出来る。そのうち仕事に心を奪われて、治そうとするのを忘れる。そうして治るのである。


「治らずに治った」と言うことも、すでに「治らず」と気づいたときには、不眠なり強迫観念なりを感じているので、この気持ちのある間は、事実において、その捉われから離れていない。すなわち人間の当然の心理を、ことさら病的と感じた結果であります。

私のところでは、神経質患者に、症状の事を口外させないようにする。患者は最初のうちはとやかく症状の苦しいことを訴え、治ったとか治らないとか、とやかく言います。いくら言わないように言っても、なかなかやめられない。面白いことに、心悸亢進とか足がしびれるとか訴える患者に、一週間程度、決して症状のことは言わないと約束させると、いつの間にか本人の知らない間に治ってしまう。本人はもとより、治療者の私までも、その不思議さに驚く。 

 


私はただ、心の事実を白状するだけです。決して善悪を論じているのではない。私は哲学者や倫理学者ではない。私はただ事実を正しく観察、研究する科学者になりたいと思っているだけです。


紀元前のエピクテトスが、『人がもし善人たらんとすれば、まず自分が悪人であることを認めよ」と言っている。我々は自分が不良不正であることを知り、常にこれに気づけば、まだその上に悪を重ねて行くことは、われとわが身があまりに心細くてできないことである。


自分の心をありのままに、虚偽なくして正しく認識することを自覚と言います。その認識は外道でなしに、正覚道により、あるいは迷信でなしに、正しい研究によって、次第次第にその認識を深めて、やがては真理にまで到達するのです。これを「正覚」と言います。


外証と言うのは、外に現れた証跡、即ち事実ないし実行であり、内証とは、心の内部における感想の精神的事実であろうと思われる。そしてもし、外証すなわち自分の行動が正しくて間違いが無ければ、次第次第に、それに相当したところの内証すなわち感じが生育してくると言うことかと思う。「南無阿弥陀仏」と敬虔の態度を持って唱名していれば、月日を得る間に、次第に心のうちに感謝と信仰の心が起こってくる。


ジェイムスは、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのである」と言ったが、泣くのが外証で、悲しいのが内証である。


精神修養では、内証を重視する。しかしこれはなかなか難しい。僕のやり方はこれと全く反対で、ただ外証を重視する。心の内には『自分は病身だ』、「劣等で意志薄弱である」とか、どのように思っていても良い。心の内には苦しみながら、ビクビクしながら、いやいやながら、どうかこうか、人並みの仕事をやっていさえすればよい。


僕の教育は、方法を教えない。「日に新たに、また日に新たなり」である。エジソンが郵便局の使いであったとき、手で郵便物を運ぶのが面倒くさいので、手押し車を発明した。汽車に乗っていたころ、交代時間を気にするのが面倒なために、目覚まし時計を発明した。いかにすれば発明心が起こるか、どうすれば発明できるかと考えていては、発明などできない。ただ欲望に沿って、工夫していくのみである。方法は欲望に従って自然に生まれるものである。


無能な人は、例えば毎日同じところを散歩する。床の軸物は、自分にも読めないものが年中かかっており、常に同じ経文を読んでいる。有能な人は、ちょっとの外出にも、必ず有用な仕事をして、新しい所を探検するとか、盆栽、美術品にも興味を持つとか、暇さえあれば、絶えず有用な書を読破するというようなものである。


形外会では、このように大勢が来て、僕も気がもめてその日は食が進まない。このうるさいことが同時に感謝です。皆さんが僕を慕って集まって下され、僕に気をもませてくれると言うことは、ありがたいことではなくて、何でありましょう。誰も来てくれなくて、うつらうつら昼寝でもしていたら、どうして感謝の生活がありましょうか。


我々の生命の喜びは、自分の力量の発揮にある。抱負の成功にある。富士登山を成し遂げて、歩けないほど足が痛くなったとしても、自分の損得にかかわらず、喜びと誇りを感じるのは、「努力即幸福」と言う心境であるからである。

モンテッソーリがいたずらに注入教育をしたり、児童の手を取って世話をしてはいけないと言うのも、児童の自発心を没却し、達成する喜びを奪ってしまうからである。


良く生きると言うことは、良く死ぬということである。今僕は九州に旅立つ前のあわただしい時間に、こうして話している。あわただしいことも事実であれば、諸君に話がしたいと言うのも事実である。こうして話をしていることが、ありのままの僕の命である。筑波山で一足一足と下に向かわず、上向きに歩いたと同じことで、私の命の目途が、私をそちらに向かわせるのです。


人が死にたくないのは、生きたいが為である。強く大きく生きるためには、死もなお辞さない。石にかじりついても、生きねばならない。このほかに神経質の生きる道はない。


「苦しいことは嫌」、「手軽にできないものは面倒くさい」と言う事実を動かすべからざることとすれば、一般の教育家が言うように、「嫌とか面倒とか思ってはいけない」「忍耐力を養わねばならない」とか言うような、余計な精神葛藤の無駄骨折をしなくなり、嫌なことは好きなように改良し、面倒なことは、早く仕上げるような工夫をするから、心は絶えず進歩と想像で引き立つようになるのである。


運命は耐え忍ぶには及ばぬ。たとえば山から石が落ちてきたとき、死ぬときは死ぬ。助かる時は助かる。耐え忍んでも、しのばなくても、結果は同じである。我々はただ運命を切り開いていくべきである。


『自分の頭に向くか向かないか』とか考えるのが、そもそも考え違いである。それは例えば暑さ寒さが向かないとか、苦労することが不適任とか考えるのと一緒である。

ともかく我々は各々の境遇に応じて、従順にこれに適応し、あるいはその運命を切り開いていくことが、第一の着眼点でなければならない。


洞山禅師の有名な問答がある。「寒暑の時に、どうすればこれを逃れることが出来るか」と問われた時、禅師は「無寒暑のところへいけば良い」と答えた。「それはどこにあるのですか」と問うと、師は「寒の時は自分を寒殺し、暑の時は自分を熱殺せよ」と言ったと言われる。

「寒殺」、「熱殺」とは、それになりきると言うことである。冬は寒く夏は暑い、動かすことのできない、やりくりできない事実である。その事実にあるがままに服従、忍受するしかない。

寒さを感じないように気を張るとか、ことさらに他のことで気を紛らわそうとか考えず、はからいをしないことを言うのである。


夏の暑さの苦痛は当然の苦痛として、そのままに忍受していれば、心は単一にそのままであるから心の葛藤はなくなり、したがって心はおのずから周囲の事情に反応し適応するようになる。自分の仕事や遊びの欲望に刺激されて、自らそちらの方に調子に乗るようになって、ますます暑さも疲労も自覚しないようになるのである。


普通の医者が、患者の心理も考えず、いたずらに「心配してはいけない」、「安心しなさい」とか独りよがりなことを言うために、患者は当然心配するべきところを心配してはならないと心配するために、ますますこんがらがって、煩悶に至る。そしてますます病を悪くしてしまうのである。


我々はどうでもいいようなことはすぐに忘れるが、「早く忘れたい」考えないようにしたいと努力するものは、ますますその考えが浮かんできて、苦しくなるものです。それは我々の心の自然現象である。夏は暑いのと同様で、どうすることもできない。不眠の時は早く眠ろうとすれば、ますます眠れなくなるのと同様です。


ルンペンは、その日暮らしであり、明日暮らす金がなくて少しも寂しさを感じません。これは我々と人間本来の気質が違うからです。あなたもルンペンがうらやましいと考えたことがあるでしょう。しかし人間は欲望が大きいほど、偉い人になるのです。欲望の大きい人が、本当に寂しい人です。その自分の寂しさを静かに見つめ、これを持ちこたえて、自分の運命を切り開いていくような、絶えざる努力をしていかなくてはなりません。


君は、「手紙を書くことが、億劫でいけない」と言う。手紙を書くことは、億劫なものである。用事をするのは面倒であり、目上の人の前では窮屈であり、冬は寒く夏は暑いのと同様である。


君は、「普通の人がなんとも思わないこと」と言うが、それは必ずしも、人と比較して詳しく調べたことではなかろうから、まったく宛にならぬことである。また「つまらぬことが気になる」というのも、それは自分が功利的に、強いて欲張った考え方をしているために、「つまらぬこと」と自称するだけのことである。気になる以上は、必ずその人にとっては、つまらぬことではないのである。


自分の思惑を人と比較する必要はない。リンゴが落ちるのを気にする人はいないだろう。こんなことを気にしていてはいけないと言えば、ニュートンの発見はありません。学者でも、哲人でも、皆自分独自の疑問や迷いがあって、初めて立派な成功がある。何の疑問もない人に、古来成功した試しはありません。


エジソンや野口英世のように、成功した人と言うのは、かつて自分が貧乏で、身分が卑しかったことをむしろ誇張して、自慢するようである。貧乏そのもの、強迫観念の者は、誰もこれらを自慢することはなく、なるべくこれを隠して、見栄を張ろうとするものである。ひとたびこれを突破すると、今度はこれが自慢の種になると言うのも、不思議な事ではありませんか? これらはすべて自分の力量の発揮と言う喜びに帰着するものであろうと思います。


「日々是好日」と言う。「好日」と言うのは、事実唯真、そのものを指しているのである。腹が減れば飯が食いたい。と言うことに他ならない。「日日是好日」が難しいものであってはならない。皆同じようになれるもの、皆が「好日」と断言しうるものでなくてはいけない。素直な人は、当然「日日是好日」である。ただ、その事実が見えないだけなのだ。


金をたくさん持てたが、それを盗まれまいと毎日戦々恐々としていたのでは、幸せと言えない。高い地位に上ったのは良いが、足元を奪われるのではないかと心配していたら、これも幸せではない。

私は金も欲しいし、地位も欲しい。ただ金もとれず地位も得られないだけである。あれも欲しい、これも欲しい、と言うのが「日日是好日」である。金があると好日ではない。地位が高いと好日ではないと言えば、すでに制限されているのである。


なりきった時、あるものは希望である。生きている以上、必ず希望がある。すなわち「日日是好日」は、せんじ詰めれば希望と言うことに帰着する。晴れた日は耕したい、雨の降る日は本が読みたい、という「たい」である。

「今日は何もできなかった」と言うのは、「あれもしたい」、「これもしたい」と言うことの逆の言い回しである。


生きているうちは、今わの際まで「まだ大丈夫」と言う希望があるし、死ねば無意識となるから、つまり自分では永遠に死を意識することは出来ない。客観的にはともかく、主観的には我々は永遠に死なないのである。


熱が40度もあると苦しい。死にはしないかとハラハラする。しかし死が思い浮かんだ時、それを否定したり考えまいとしたりせず、思い浮かんだままに受け取る。私はそれを「見入る」と言う。死が思い浮かんだら、死を見入り、遺族の不憫さを想起すれば、またそれに見入る。少しも自分の心に反抗しない。すると楽になる。


「死を考えてはいけない」のように、思い浮かぶものを考えまいとすれば、思想の矛盾になり、ますます苦しくなってしまう。思い浮かぶままに見入っておれば、その時その時にうまい考えが浮かんできて、何とかして助かると言うものである。希望は必ずある。それがわらをもつかむ心であり、死ぬ間際まで、希望はあるものである。