現代に生きる 森田正馬の言葉②


 

 

 

 

 

 人を気軽く便利に幸せにするためには


神経質の考え方、あるいは精神修養の誤ったものは、その怖いと言う心を否定し、一方には近づきたいと言う心にいたずらに鞭打ち、勇気づけようとして無理な努力を工夫する。結果却って精神の働きが委縮し、偏ったものになってしまう。怖くないように思おうとするから、いたずらに虚勢を張って頑なになり、強いて近づこうとするから、相手の迷惑など少しも気づかず、図々しくなってしまうのである。


これに反して、両方の心が相対立しているときは、相手に接近してもつきっきりにならない、即ち不即の状態で、相手が喜ぶときに近づき、相手が迷惑の時には、ちょっとその場をはずす。また一方には怖いために、離れていても離れきりにはならない。ちょっと相手の声がするとか暇な時があるとか言うことを、極めて微妙に見つけ、直ちに近づいていくという風に、不離の状態になる。つまりくっつくでもなく離れるでもなく、常にその駆け引きが自由自在で、きわめて適切な働きが出来るのである。


不即不離の状態は、一身に目を目的物のみに向けて、自分のはからいや小細工を捨てたところに起こることである。このはからいの事を、『とらわれ』と言う。すなわち「恥ずかしがってはいけない」とか「先生に接近しなければならぬ」と言うもっと主義とかを、とらわれと言います。この心が多ければ多いほど、不即不離が出来なくなる。


人と話をするとき、相手の目を見つめなければならないけれど、直接見るのは決まりが悪いから、自然に角度をそらして、他の物を見ているふりをする。そして必要に応じて、チラチラと、相手の表情を見るのである。これが普通の人の自然の態度であり、いわゆる「不即不離」である。これははからう心がなくなり、『自分は弱いものである』、『自分は気の小さいものである』と言う素直な心であったときのみできることである。


まだよくならない人は、皆治った人にあやかればよい。あやかるとは、うらやましくてその人のようになりたいと思うことであり、その人の謦咳に接することである。この反対は、人を寄せ付けず、排斥することである。あの人は頭が良いから治った、自分は頭が悪いから治らない、とかいろいろヒネクレをこねて、自分を蔑視するようなことである。こんな人は縁なき衆生で、最も治りにくいのである。


今日の出席者は、対人恐怖、赤面恐怖が多い。人前で極まりが悪いとか、恥ずかしいとか言うのは、人の感情であり、何でもない人は精神異常者である。神経質の方々は、対人恐怖でない人など、一人もありますまい。その恥ずかしいことがあるがままであり、これが普通の人である。ところがこれに屁理屈をつけて、恥ずかしくては不都合だとか、損だとか考えるのが、対人恐怖の特徴である。


匿名でなければ、問い合わせや手紙のやり取りに便利であろうと思われるのに、なぜ匿名にするのか? その理由が分からない。やはり自分が神経質と思われるのが嫌なのであろうが、ここには少しも自己犠牲と言うものがないのである。


『自分はもう病気が治ったから、会に来ても面白くない。」と言う人が時々いる。そんな人は本当には治っていない。また再発するのである。

「同病相憐れむ」と言って、自分が治った人は、他の同病者を治してやりたいと言うのが、人情である。そのためにここに関係した人は、この会を盛んにするため義理でも出席し、会の宣伝もしなくてはならない。


これに反し、自分一人の我を盾に、人の不幸や病気を見たとき、『自分でなくて良かった』とか「そのくらいの苦しみは我慢すべきだ」とか「諦める他はない」とか自分勝手な事ばかり言っている。これを「小我」と言う。多くの人は悩みを悩み、世の人の喜びを喜ぶ。これが「大我」である。


およそ自分が善人として人から認められるためには、人が自分に対して気兼ねしようが遠慮しようが、面倒がろうが、人の迷惑はどうでも良いと言う風になる。これに反し、人を気軽く便利に、幸せにするためには、自分が少々悪く思われ、間抜けと見下げられても、そんなことはどうでも良いと言う風に大胆になれば、初めて人から愛され、善人ともなるのである。


神経質は自己内省的で、何かにつけて自分の事を観察批判する。しかも用心深く、石橋を叩いて渡る。あるいはたたきすぎて壊すという風である。すべてが理知的で感情を抑制する。従って軽はずみではないが、ヒネクレ者である。自己中心的で、他人に対して情愛は麗しくはないが、信用が置けると言う風である。


「くたびれたときどうするか」ではない。その時々の自分の境遇に対するあるものに対し、眼をとめる。私はこれを「見つめよ」と言う。試験勉強の本なり忙しい事務の書類なりに、静かに目を止めていさえすればよい。そのうち自然に自分の体の状態に応じた精神活動が起きてくるのである。自己内省的に、まず自分の疲労の状態から測量するのではない。周囲の境遇に従って、心を外向的に、物そのものに向けるのである。


人は強いて善をしようとするから偽善になる。自分のなすべき道と言うのではなく、人の苦しみの気の毒さを手伝ってやれば、初めて心が外交的で、自分が事そのことになりきり、自己内省を忘れている。これが本当の善である。


いま課長が失敬だと思って癪に障る。その時あの課長は若いくせに偉ぶって我々を軽蔑していると考えて、自分が憤慨するのは当然だと考えている。これはちょうど太陽が動いていると考えるように、自分勝手の自我感情から、その課長の心を観察し邪推したものである。実は課長の方には、そんな心持は少しもない。ただこちらが妬みの心で観察するからである。


「雪の日や あれも人の子 たる拾い」を、普通の人は「寒かろう、かわいそうに」と感じる。しかし神経質は「小僧は寒いことさえ分からない」と言い、自分ばかりが寒く、世の中の人は、皆強いから、寒さを感じないだろうと思っている。「ただ見れば 何の苦も無き水鳥の 足に暇なきものと知らずや」と言うように、番頭でも忙しい時は、ハラハラし、腹立たしくも主人に食って掛かりたくなりますが、ただ素直に我慢しているのである。ちょっとみると、フワフワしている水鳥のように思われるだけである。


不潔や不快と感じることがあっても、その気分はどこまでも我慢して、理知によって行動しなくてはなりません。自分一人気分の良いようにしても、周囲が不潔であれば、何にもならない。断然人並みにするように心がけなければなりません。『人はどうでも自分さえ』と言うような自己中心主義では、決して人の事実が許しません。


孔子の言葉に、「君子は和して同せず、小人は同して和せず」と言うことがある。偉い人は人の意見を尊重して、いたずらにこれを排斥せず、しかも自分の意見はしっかり持っている。下等な人は、人が何か言えば、直ちにそうかと思いながらも、一度は争ってみる。偉い人は衆議に服従するけれども、自分の見識は動かない。下等な人は自分の見識がなく、いたずらに屁理屈を言って、自己の存在を目立たせようとする。

盆踊りでも、一緒に踊ればよい。強いて自分が高く留まり、他人を白眼視してすましているのにも及ばぬことである。同じでなくても和するところに、社会的な安穏があるのである。


理論では当然好くべきはずの人が、何となく虫が好かないということがある。これは自分には直接気づかないで、いわゆる潜在意識で、自分の既往の体験から、様々な連想によって起きるものである。たとえばある人の口元が、自分の愛する家族に似ているとか言うことで、これを愛したり、毛嫌いしたりすることがある。そしてその愛憎は、その家族と、あるいは気に食わぬことがあった経験とか、あるいは互いに親しんだ愉快な思いでとか言うことの連想と、関係していることがある。


前にも少し触れたように、「感じから出発せよ」、「自然に服従し境遇に従順なれ」と言うことである。それで我々は、人と交際する時に、それが性格が違おうが、何であろうが、自分の直接の感じのままに、好きは好き、憎いは憎いで、そのままに交際していけばよい。嫌いだからと言って、「私はあなたが嫌いです」などと挨拶する必要はない。会釈笑いでもしていれば良い。


この際に、自分は『人を憎んではならない』『人は愛である』 「敵を愛せよ」とか、いろいろな教訓を引き合いに出し、われとわが心を矯め治そうと反抗するのを、私は「自然の感情に服従しない」と言っているのである。

これと同時に、自分はあの憎らしいのが不愉快だから、ヤツのところにはいかないとか、話しかけられたら、返事もしないとか言うのは、わがままであり、「境遇に従順でない」と称するのである。


私も学生時代から、社交的常識がなく、森田は変人で付き合いにくいと言われたものです。今もその通りです。ただ一見してはよりつけず、深くなるほど親しみが出来ると言うことの一般評が、私のとりえであります。これも神経質の特徴のようです。


神経質の患者に、「盆栽に水をやること」を頼めば、必ず「日に何回やればよいか?」と聞かれる。しかしそんなものは回数で決まるものではない。木や花の種類、鉢の形状、天気や気温、鉢の置き場所など、限りない変化があるのである。

ただ植木を育てたい、枯らしては困ると言って、時々観察していれば、数日のうちに水の加減が分かるようになる。


友人と言葉を交わすか否かと言うことも、まったくこれと同じです。強いて言葉を交わそうとすれば、うるさがられ、排斥される。しかし絶交すれば寂しい。ただ友人に嫌われたくない、親しみたいと言う平常心があれば、その時々に応じて、適当な駆け引きが出来るようになる。


『人にどう思われるか」と、気兼ねする人ほど、人に対する思いやりがあるが、『自分が人に気兼ねするのは、無駄な事である。」と言う風な自分勝手な解釈をする人は、それをしないように努力するから、人の心を正しく見ることが出来ず、悪意、邪推ばかりになる。するとますます不人情になり、したがって人にも疎外され、変人扱いされるようになる。


 

 

 

 

本当の自分を知る


自分は果たして、何を求めつつあるかと言うことを知らなくてはならない。たとえば不眠を治したいということは、何を意味することになるか。単に不眠そのものが苦しくて、惰眠をむさぼりたいのであれば、酒でも飲んで酔生夢死すればよい。もし自分を深く考えてみれば、決してそんなことはない。不眠を恐れるのは、実は翌日の仕事の能率が上がらないことを恐れているのである。


このような関係であるから、一度不眠が恐れるに足らぬことを知り、さらに一歩進めて、不眠を逆用して、ますます仕事の能率を上げることを体得するならば、そこに初めて心機一転して、殆ど奇跡的に不眠がなくなるのである。


例えば赤面恐怖、吃音恐怖が、恥ずかしいのが苦しいのではない。実は自分が立派でありたいと言うのが、その目的である。もし恥ずかしいことそのものが苦しいのであれば、それは意志薄弱であって、神経質の強迫観念ではないのである。


内気と言うものはどうして起こるか。その原因と性質を知るために、もっと突っ込んで自分自身を観察批判しなければならない。自分自身を正しく明らかに見通すことを自覚と名付け、われとわが心を取り繕い、自分自身の都合の良いようにのみ考えるのを『自欺』と称するのである。

この自覚がそのまま修養であり、自分の内気は何であるかと言うことを自覚さえすれば、直ちにその内気を根治することが出来るのである。


自分は何ゆえにケチであるか。金持ちになりたいからである。自分は何ゆえに勉強するのか。卒業がしたいからである。自分は何ゆえに内気であるか。それは人に褒められ、悪く言われず、人に優れて偉くなりたいからである。


自ら欺くことなく、自己を正しく見つめることを自覚と言う。例えば自分は苦痛を回避する気分本位のものである。怠惰であり低能であり、欲望過大であるとか言うことを、自ら顧みて、良くこれを承認することである。

いまこの自覚と言うことについて、少し注意すべきことは、自覚はただ自分の本性を正しく細密に観察認識すれば、それで良いのである。やりくり手段はいらない。ただ認めさえすればよい。ここが最も大切なところで、思い違いやすい所である。


まず自分は赤面を治したい。なぜ治したいのか。もし偉くなりたくなければ、何も骨を折って直す必要はない。何の目的に対して、どのように治したいのかの予定判断をなるべく正確に設計すればよい。


自覚することを知らないで、いたずらに思想の矛盾に迷っているものは、いたずらにモノを大切にしなければならぬ、と言うことばかりに屈託して、土くれと宝物の区別さえつかないようになる。この得難く立派な素質として、世に生まれ出た神経質の一生を酔生夢死に終わらせるか否やと言うことが、一にこの自覚と言うことに帰着するのである。


ただ自分は不機嫌なわがままものであることを自覚し、人にもこれを認めさせ、その結果として、当然人から嫌われ、うるさがられるものである。と言うことを覚悟し、その応報を受けさえすればよい。間違っても、こんな自分だから人は大目に見て、許してくれるべきなどとは考えてはならないことである。


親鸞聖人は、『自分は悪人である。罪人である。」と決めた。ソクラテスは『自分は何にも知らない、ただ何も知らないということを知っている」と言った。その自覚自認だけで良い。

ここを思い違えて、「だから善人にならなくてはならない」「知恵者にならなくてはならない」と言うことになると、脱線して迷路に迷うことになる。


「白痴は常に自分を利口と思う」と書いたものがある。多くの場合、自分の考えとは反対になる。知恵が足りない人ほど、自分には知恵があると思っている。自分は意志薄弱と思う人は、必ず意志薄弱ではない。自分は愚鈍であると思う人は智慧があり、かつ将来ますます進歩する人です。安心してよろしい。


僕の本の中に、「赤面恐怖は恥知らずになる。不潔恐怖はますます不潔になる。」と書いたのも、皆自分の気分と事実とか反対になることを示したものであります。親鸞が偉くなったのは、自分が愚鈍であり悪人であると悟った後であります。赤面恐怖の人でも、自分は身勝手でわがままであり、人には思いやりのかけらもないことを自覚するようになれば、心機一転してたちまち治るのである。


対人恐怖などで、自分の病気が治らないと主張する人は、いつまでたっても治ることはない。その人はいくら仕事が出来るようになっても、演説が出来ても、決して良くなったとは認めない。いつまでも人前で恥ずかしい、思うことが言えないと言い張る。それは夏は暑い、冬は寒いと同様に、どうすることもできないことに気づかれないのである。


苦痛はどうすることも出来ぬ。仕方がないと知り分け、往生したときに、その日から治るのである。すなわち「逃げようとする」か「踏みとどまる」かの違いが、治る治らないの違いである。


昔、楽にかけたのが、次第にかけないようになるから、残念でたまらない。なんとかしてうまく書こうとする。それは自分はすでに書痙と言う病気になったのであるから、素直に自分は書けないものと往生すればよいのに、強いてその異常に打ち勝とうとして、様々にもがくから、ますます悪化するのである。


今日も私が庭でしおれた鉢花を示して、「水をやらなければ植物は枯れる、人は食わなければ死ぬ」と同様である。と言うことを知らせた。たったこれだけのことが体得できれば、即ち悟りである。患者が庭に出て、仕事がなくて失業し、退屈していて、眼先に花が枯れかかっていても、それが少しも目に留まらない。それは悟っていないのである。


ある時一休が曲がりくねった松を指さし、「この松をまっすぐ見ることのできる者はいるか」と言う問いに対し、ある人が「この松は曲がりくねっている」と答えたということです。すなわちその松を、あるがままに正しくまっすぐ見て、正直に表現したのであります。曲がった松をまっすぐに見ようとするヒネクレた心を単純に取り戻し、思い曲げようとするところに、様々な強迫観念が生じるのであります。


「私は薄情な人間です」と言われると、さて良い所にお気きがつかれました。じつにこれが素直な忠良の人となり、あるいは悟りの開ける元となるものであります。


ただその現在に執着するのが、人間の本性である。良いも悪いも仕方がない。私はいつ死ぬかわからぬ身体で、しかも絶えず読書し、いろいろなことを見聞し、自分の知識欲を満たしている。もし一朝に死んでも、少しも残念ではない。ただ生きている現在だけを欲張っているのである。


自分自身を観察してみると、我々が死ぬまで食うことをやめないのと同様である。知識欲も食欲とともに、我々本来の性情である。我々は人が寿司を食べていると、それが欲しくなり、羊羹を見れば、またそれが食いたくなる。あれもこれもと食欲が盛んなときは、自ら活気を感じ、楽天的になる。これに反して食欲がなくなってくると、何となく心細くなってくる。


素直な人は、他の人の体験を聴いて、「ははあ、そんなこともあるものかなぁ」と感心する。素直でない人は、「そんなことがあるはずがない、バカらしくて私にはわからない」と言う。分かるもわからぬもない。ただそういうことがあったという事実を、話しているに過ぎないのである。


そもそも自信とは、どんなものか。強い人が勝ち、弱い人が負ける。上手な人が良くできて、下手な人は出来ない。それが事実であり、その事実をそのままありのままに見るのが、信念であり自信です。

しかしそれでは何の変哲もないから、皆さんは出来ないこともでき、強い人にも勝てるように、自信と言うものを得たいという野心があるのではありませんか。それが『自欺』のもとであり、迷いの原因であります。


山の井君には、字が全く書けないのに、会社を辞職してはいけないと言い、早川君には、病気がまったく治っていないと思っているのに、家に帰って家人に「治った」と報告せよと申し付けた。

普通に考えれば、まったく常識外れである。だが山の井君は、その無理が通って、たちまち心機一転して治った。早川君は十分実行が出来なかったので、全治できなかった。私がこれらの人に無理な要求をするのは、いわゆる「人を見て法を説け」であり、この人ならばこれで治ると思うからであって、これを普通の人に言ったら、それこそ馬鹿にされるだけである。


例えば生活習慣病で、意志が弱いタイプの人間には、場合によっては少々脅かしてやる必要がある。でなければ中々節制を守ってくれない。これに対して神経質は、決して同じに扱ってはならない。一般の医者が、神経質の心理に対して多くを知らないことが遺憾である。


人に対して非常に慇懃な人は、かならず強情で、妥協のできない人である。他の人には相手の都合などお構いなしに、自分の礼儀だけを全うし、独善を押し通す人である。つまり融通が利かない人である。外見や見かけによって判断してはいけないという教訓です。


「面弱しは、気が強い」と言うのは、人間心理を言い当てている。

ところで「面弱し」には二通りある。一つは意志薄弱性で、ただ恥ずかしいままに恥ずかしがっている。もう一方は神経質の対人恐怖で、人に勝りたい、バカにされたくないと言う優越欲のために、恥ずかしがってはいけないと、負け惜しみの意地っ張り根性で、却って劣等感を刺激されて、面弱しになってしまうものである。


女は自分は弱いものであると確信している。だから「弱くなりきる」ことが出来るのである。決して「強くあらねばならぬ」とか「弱くてはいけない」と言う反抗心がない。だから夫婦げんかの時や、火事が起きたときにも、強がるための虚勢がなく、その分必死になれるから、全力が出て、強くなれるのである。


ウォータールーの戦いで、英軍の兵士が、爆弾を持って敵地に侵入し、大任を果たした。その二人がウェリントンの前に呼び出され、褒められた時その二人は緊張のあまりブルブル震えていて、ろくにモノも言えない状態であった。

この時ウェリントンの言葉に、「怖れを知るものは、真の勇者である」と言うのがある。怖れになりきれば、必要に迫られ、なすべきこと、やむを得ない時に、非常に勇気が出るものである。


赤面恐怖でも、単に自分の名前と症状だけを言うのであれば、さほど不安は感じない。しかし一方で人の関心を得たい、目立ちたい、などの野望があるので、少しでも優秀な自分を印象付けたいと考える。だから緊張不安が増幅するのである。


金持ちは常に己の財産の乏しきを思い、知者は己の知能の足らざるを憂える。従順なる人は、人は常に自らわがままに非ずやと恐れ、善人は常に己を悪人と信ぜり、貧者は常にありたけの金を使い果たし、愚者は常に自分のありたけの知恵才覚を見せびらかし、不従順なるものは、常に己がこれ以上の従順が出来るかと恨み、不善人は常に己を誠実親切なりと信ぜり。


神経質は時間割をこしらえ、仕事の見積もりを立てて、納得できるまで手を出さない。このようにやるやらないの差がはっきりしている。しない癖がつくと、なかなか手が出せない。神経質は重い車である。動き始めるまでは時間がかかるか、いったん動き出すと、弾みがついて、今度は中々止めることが出来ない。


「予定通りにけがをした」と言うのはあり得ない。しかし「うっかり・・してしまった」と言う自己弁護をするものは多い。余計な説明である。過失は当然「うっかり」が原因である。けがをしたのは当然不注意である。自己弁護のための心遣いで一杯のため、例えば危ないものを両手に無理やり持ってしまったという不真面目には、少しも気づけないのである。こういう人は同じ過ちを繰り返す。


孔子の言葉に「君子は上達し、小人は下達す」と言うことがある。成瀬さんのような方は、同じ不眠でも間もなく是から脱し、しかもこれを利用して、かえって仕事の能率を上げると言う風に、上達なさるのであるが、神経質のいたずらに不眠に執着するものは、ますます不眠の不快感にとらわれてしまって、仕事も何も手につかなくなり、ますます下達してしまうのである。


 

 

 

 

人生は調和である


感謝とか言う言葉は、皆相対的なもので、恨むとか呪うとか言うことと対立したものです。希望と恐怖、苦痛と安楽とかも同様です。一円を得たということと、一円働いたということとは、同一事件の裏表です。その得た方を喜びと言い、働いた方を苦痛と言うのは、単に一面のみを取り立てて、注意を促すにとどまるのです。実は必ず同時に、切っても切れぬよう、連関接続しているのです。


『自分は不幸である。劣等である。」「人生は不可解である。この世は苦海である。」とか言うことは、皆相対的であり、比較的である。不幸は幸福者に対し、不可解は悟った人に比べての言葉である。


可愛いとか苦しいとか、幸せとか言うのは、常に相対的であり、かつ変化しているから、決して固定したものではない。すなわち世の中は苦しいとか、あの人はいつも幸せだと言うことはない。それは例えばお菓子はうまいとか、子はかわいらしいとか言うことが不変でないと同様で、食べ過ぎたときはお菓子を見るのもいや、子供にいたずらをされた時は、憎たらしくなるようなものである。


労苦のあるところ、いたるところに幸福がある。幸福と労苦は相対的だからである。相対性原理に絶対速度が無いように、幸福にも一定不変の存在はない。上が高ければ下はいよいよ深く、歓楽が多ければ、ますます哀情が深い。親から受けた富は、本人にとっては中性である。幸福の実感はない。


空想とは、自分で思いふけることが面白いのを言う。くじが当たったら何を買おう、とか言うようなものである。雑念とは、考えることが苦しいことで、例えば明日試験である。気になる。いや気にしてはそれが邪魔になって勉強できないとか言うものである。

雑念と思って喜べば空想であり、空想と苦しめば雑念になる。


空想は、これを起こさないようにすれば煩悶苦痛となり、これを放任すれば、限りがなくなる。どうすれば調和できるかと言うと、普通の人は自由に素直に、周囲の事情に適応して、気軽く活動し、立ち働いているからである。


神経質の強迫観念の治し方は、空想なり不快の考え方なりは、そのまま起こるがままに放任し、強いてこれを否定し排除する努力をせずに、日常の境遇に順応して、絶えず生活の方に気軽く手を出して実行していさえすれば、食欲も空想も、自ら調節されるように、強迫観念もなくなるのです。


これらの患者が、当然騒がしい電車の中で読書するとか、非常に多忙なとき、急ぐ調べ物をするとか言うことを実行してみると、却って聴覚過敏も、注意散漫も影をひそめると言うことが分かる。

それは内界と外界の調和するところであって、工場の従業員がその騒音のうちに会話も自由にできるようなものである。外の刺激が強ければ、内の精神緊張も高まって、自ら調和が出来るのである。


正しき人生観と言うものは、勝手わがままなものではない。必ず万人に共通であり、人の行為の模範であり、人生向上の指導でなければならない。これに対する条件は、まず小我を離れ、自己の気質を没却した底のもので、いわゆる大我の境地に立っての事でなければならない。


ある女が神経質で、病床に就き、今にも自分に死が襲い掛かってくるものと恐怖していた。そのとき4歳の我が子が、百日咳にかかり、呼吸も消えなんとする発作に見舞われた。女は我を忘れて子を介抱し、この時から始めて自分の病を忘れるようになった。これは小我の偏執が、我が子の愛によって没却されたのである。


親の恩、師の恩は、物をわきまえ、道を知るに至ってのち、初めてこよなく尊いものなのだと、知るのである。


この「好かれたい、憎まれたくない」と言うことが変化しては、あるいは『人から偉く思われたい、侮られたくない』と言う心に伴って、それがヒネクレると、対人恐怖、赤面恐怖と言うものになる。だが人は、若い人は若い人、老人は老人なりにおのおの「好かれたい、憎まれたくない」と言う自然感情のままに素直に従い、ひねくれることさえ無ければ、自然に人は善を為し、悪に進まないように導かれるのである。


「愛せよ」の教訓を標語として、これを無理やり押し通そうとするときには、脱線して、人に道徳を説法して、自己の偽善に気づかず、あるいは自分が下戸で、禁酒運動をしたり、あるいはいたずらに、現世の汚濁を罵って、破壊的な危険思想となる場合さえある。


人は誰でも腹が減れば飯が食いたくなる、目上の人の前では恥ずかしい、これを「平等観」と言う。

「雪の日や あれも人の子 たる拾い」と言う時、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時は苦しいのだとみるのを「平等観」と言う。それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりであるから、自分は特別に苦しいのだとするのを「差別観」と言う。この差別をますます強く言い立て、他人との壁を高くするとき、ますます妥協が出来なくなって、強迫観念は憎悪するのである。


治らぬ人は、自分の殻に閉じこもり、城壁を築いて、なかなか自分をさらけ出すことが出来ない。自分のような特殊なものは他にいないと、ことさらに「差別観」を立てて、頑張る。治った人は、恥ずかしいことは恥ずかしい、苦しいことは苦しい、夏は暑く冬は寒い、誰でも同様である。と言う事実を認められた人である。


平等観が出来れば、自分一人に限って恥ずかしいことではないから、必要に応じて、自由に告白することが出来る。飯を三度ずつ食うとか、病気して寝たということは、誰でも普通の事だと思っているから、強いて打ち明けよと言われなくても、自由に告白できる。しかし、内緒でつまみ食いをしたとか、昼頃まで寝ていたというのは、ちょっと人並みではないから、恥ずかしくて隠したくなる。もっともなことである。むしろ恥ずかしいことを平気で告白できるようになってしまうと、それは堕落である。


心配事を安心したり、忙しいのに落ち着いたりしようとするのは、それは「難きに求む」ことになり、まったく不可能な事である。以前に香取さんが退院の頃、「不安心に常住すれば、はじめてそこに安心立命の境地がある」と言った。なかなかうまいことを言う。


「安心立命」は目的ではない。命を全うする手段である。向上を忘れて、いたずらに安逸の立命を求めるのは、邪道であり小乗であり、迷信である。


僕の話を聴いて「うるさい」と思うのも、感情の事実であるから、何とも仕方がない。仕方が無いとあるがままに我慢していると、自然に心が落ち着いて楽になると言う。しかし君の場合、「事実に服従しなければいかん」、「我慢すべき」と言うスローガンを立てるところの努力があり、相当に骨の折れることある。これは小乗のやり方である。このような「はからいの心」があるとそれが邪魔になって、進歩が現れてこない。


子供が泣き叫んでいる。「ああうるさい! 何とか泣き止ませる方法はないか」と希望を進めていく。叱ろうか、懲らしめてやろうか、お菓子でも与えてみようか、いろいろ考えながら、自分の仕事をしている間に、いつとはなしに子供が泣き止む。なるほど子供は泣くだけ泣けば、自然に泣き止むものだと言う法則を発見する。


この四方に心が散った有様を「無所住心」と言う。周囲のすべての事に気づき、しかも何事にも心が固着せず、水の流れるごとく、自由自在に適応していく有様である。あたかも明鏡にモノの写るがごとく、来るものは明らかに写し、去れば直ちに影をとどめないと言う風である。


次にこれと同じ意味であるけれど、いわゆる自己内省で、自分の顔が赤くなったとか、どもるようなことはないだろうかとか、絶えず自分の事ばかり気にしているものは、ちょうど丸木橋を渡るのに、自分の足元ばかりに注意をし、前は見ないようなものである。


我々が起立する時、両足を開き、固く踏みしめているときは、まったく安定の姿勢であって、この状態では周囲の変化に順応できない。ちょっと何かがぶつかっても、すぐに倒れてしまう。これに反して体操の時の『休め』の姿勢は、片足で全身を支え、他の足は軽く地面に触れている状態である。いわゆる「不安定」な姿勢である。しかしこの状態の時には、周囲の状況に素早く迅速に対応することが出来るのである。この姿勢で電車に乗っていると、少しの揺れでもつり革をつかむ必要もないし、人がぶつかってきても素早くかわすことが出来るのである。


「武士は轡の音にも目を覚ます」と言う。病気の子供に添い寝する母親が、かすかな小児のうめきにも、直ちに気づくとか言うのも、みな不安定の姿勢で寝ているためで、決して枕を高くして安眠しているのではないのです。


私はまた腸が悪いせいで、飯を気長く噛み下すことをやっている。そうするとこれだけでは気が焦るから、その間に手紙や新聞を読んだりする。それで調和が保たれる。この調和があると、食物の味も良くわかるが、何もしないで噛むことばかりやっていると、気が焦って、かえって味が分からないということになる。


読書でもその通りで、病気で寝ているときとか、人を訪問して待たされている間とか、余分の廃れ時間と考える時には、つまらぬものを読んでも、ゆっくり落ち着いて読むことが出来る。だが遊びごとに心がはやっているときとか、試験勉強の時などは、心がハラハラして落ち着かない。こんな時はかえって、騒がしい所とか、電車の中とか、その心のままに、雑念を遠慮なくおこしながら、読書を進める時は、心は元気に満ちて、読書の進行も早ければ、理解もますますよくなる。


もし、夏にこれだけの着物を着れば、重いことだろう。今もし裸になれば、震えるという運動がおこる。この運動が重い着物を持ち上げているという力に変化してここに調和がとれている。外界と自分との調和がとれているときは自覚しない。


もし流感が何かであれば、寝ていれば調和がとれて苦しさが和らぐ。しかし外に出れば、不調和になって頭痛が激しくなる。つまり調和と言うものは、自分の身体の状況と周囲の境遇、活動の状態との関係の間にあるのである。


心悸亢進発作の患者は、家族からいたわられたり氷嚢をつけたりすると、ますます憎悪する。一人電車に乗り、誰も助けの無い時に、初めて精神が緊張し、調和を得て、発作は起きなくなるのである。これに反して実際の心臓病の患者は、心身共に安静にしなければ、調和がとれず、危険な状態になることがある。


かの乳児の泣き声は、若者にとってはずいぶんうるさいものである。しかし我が子を養った親、さらにそれが我が子であるならば、さほどうるさくもなく、あるいはリズミカルにさえ聞こえるものである。すなわちその乳児と、親の心の内容とか調和しているからである。


宇宙の現象は、すべて発動力と制止力とか平衡状態にある時のみ、調和が保たれている。天体にも物質にも、引力と斥力があって、その構造が保たれ、心臓や消化器官にも、興奮神経と制止神経が相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われる。我々の精神現象も、決してこの法則から離れることは出来ない。これを「精神の拮抗作用」と名付けている。